テキサスは暑くて顔のでかい男ばかりが住んでいるのでやんなっちゃった、と山本精一はテキーラをワン・ショット・グラスでたてつづけに5杯飲みほすと、ぶつぶつ念仏をとなえるように語った。
山本は8歳までテキサス州オースチンで育った。父親は宇宙物理学の教授である。母親は茶道をたしなんでいたが、テレビで「ゴーゴーフラバルー」を見るのが好きだった。オースチンの山本家の隣人は中国人で、カントリーのチャイニーズ・メランコリーズでフラット・マンドリンを担当していた。そいつはリンさんといった。高校3年の時山本は一度かっての我家をオースチンに訪ねた。その家はまだあった。そこにはコロムビア人一家が住んでいた。そいつらは庭でバーベキューをしながらビー・ジーズをラジカセで聴いていた。山本は家の裏側へ行き、勝手口のところに糞をして、その日の晩は近くのブルース・クラブ「バスターズ」でギター・スリム・ジュニアのライヴを見た。終盤、ギタースリム・ジュニアが「ストーミー・マンデー・ブルース」をやったので、店にあった15年間弦を張り替えていないネックの反ったギブソン・ファイア・バードをひっつかんでステージに飛び入りし、ギターソロを32分間やった。そのときの体験がこのアルバム「金星」の7「日本解散」に強く影響している。山本はいう。「俺の原点はいろんなところにある。想い出波止場をプログレと思っているやつもいるらしいが、そんなことは、牛のよだれさ」と。
夏になると地面を掘りたくなる性質を持っている津山が山本と初めて逢ったのは天王寺動物園の入口だった。津山は谷山浩子の写真を皮ジャンのソデに縫いつけていた。津山は山本に持っていた「男一匹ガキ大将」の4巻をあげた。初めて逢った2日後山本と津山はセッションした。そのときに練習曲としてダーティー・フィルスィー・マッドの「ザ・フォーレスト・オブ・ブラック」とフンカ・ムンカの「アニヴァーサリオ」をやった。その初めてのセッションはこのアルバム「金星」の3「ギオン」に片鱗が残されている。
山本と津山が初めてセッションしていた頃香港から長谷川が帰国した。長谷川の父親は宝石ブローカーをしている。長谷川は12歳までねずみと会話することができたので、家族からも友人からも忠だからチュウと呼ばれていた。香港で書道を無理やり母親からやらされていたので、右手と左手とで同時に般若心経を書くことができる。しかしチュウはカンフーによってドラムスに開眼したのであって、決してビリー・コブハムとは関係がない。
「燃えよドラゴン」と「サブウェイ・パニック」の二本立を見にいった山本は、隣の席で見ていた男が、ブルース・リーのアチョーにあわせて両手両足をバラバラにバタつかせる奴だったので、終映後声を掛けてみた。「君 [ゴルゴ13] 好きか?」と。山本、津山、長谷川によって、こうしたバンドはできた。バンド名は山本の祖父(警察官)がつけてくれた。想い出波止場は当初一週間に5日も練習していた。やらないと落ち着いてテレビが見られない、という山本の性癖によるものであるが、他の2人は手が痛くていやだった。しかし山本は実は練習はやりたくないのだがやらないと他のバンドのやつらにナメられると思い込んでいただけだった。だが他のバンドの奴で想い出波止場のことを知っている奴は3人しかまだ大阪にはいなかった。一回目のギグは1988年10月3日ごろ行なわれた、という説がある。その日のことを歌ったのがこのアルバム「金星」の12「おやじ」である。1969年1月4日、想い出波止場はフィルモア・イーストでギグを行なっていた、ということを1989年の山本精一は知るよしもなかった。それを知ったのは最近のことだった。アメリカのクリーブランドのアングリー・レコードからこのときの録音を収めたアルバム「フィルモアの想い出波止場」が1995年4月5日にリリースされたのである。そのアルバムから今回特別にボーナストラックとして収録できたのがこのアルバム「金星」の17「あめふらし」である。フィルモア・イーストでのギグの後、山本はスペインヘ行ってトマトの栽培に力を入れ、津山はアルゼンチンで煉瓦職人になった。長谷川は岡山県に戻って中学校の体育教師になった。そして1988年山本は想い出波止場を知らぬ間に再結成してしまったが、地球は回ったままだった。山本は言う。 「さいとうたかおは凄いけどな、男はバンカラや。出口王仁三郎もな」
このアルバム「金星」で想い出波止場はついにデビューした。今までいろいろあったけど気にしないでいいソクラテスが、風呂に入る日が来たのだ。
想い出波止場「金星」チラシ1995年