Improvised Music from Japan / Filament / Information in Japanese

CD「29092000」ライナーノーツ

振動する「意志」と、明滅する「自己」

佐々木敦

おそらくこのCDにより最初にこの演奏を聴く者は、これがそもそもはライヴであり、多くの聴衆を目の前にして行なわれた演奏である、という事実を受け入れることが難しいのではないだろうか。それほどにここでのフィラメントの音楽は、驚くべき強度のストイシズムに覆われている。

一定のサイン・ウェイヴが、微妙な強弱を行き来しつつ、ひたすら持続する中、間欠的に微細な接触音が重ねられたり、何によるものか分からない程に微かで鈍い駆動音が重なってきたりする。そこでは、最初から最後まで、ほとんど何も起こることはないが、それと同時に、信じ難いほどに多くの出来事が起こってもいる。この30分弱の「音響」を名指すには、「作曲」という言葉も、「即興」という言葉も、「演奏」という言葉も、おそらくは強すぎる。しかしこの弱々しい現象の内には、そのすべてが含まれてもいるのだ。

なるほど確かに時折、観客の咳や身じろぎのような音も遠くで聴こえるので、それはライヴであったのだろう。いや、それはまちがいなくライヴだったのだ(筆者はその場に立ち会っていた)。そしてフィラメントの二人は、その演奏の間中、ほとんど身体を微動だにさせなかった。彼らは何もしていなかったようにさえ見えた。いや、彼らは信じ難いほどに多くの事をやってのけていたのかもしれない。

「音」を発する行為において、「自意識」と呼ばれるものは、可能な限りマイナスの方向へと導かれていったとしても、けっしてゼロになることはない。そこには「音」を発している、発しようとしている、発するということを考えている「私」、そして「音」を聴いている、聴こうとしている、聴くということを考えている「私」が、必ず存在しているからだ。ミニマムな「聴取」と、ミニマムな「発音」を行なう、ミニマムな「意志」を持った、ミニマムな「私=自意識」……

フィラメントとは、大友良英と松原幸子という二個の人間が、このような意味でのミニマムな「私」というものを、ある紛れもない厳格さを保ちつつ、互いに参照=反射し合いながら、ある時間、ある空間において、ある意味では極めて消極的な、だがある意味では決定的でもある接触と切り結びと相互貫入、すなわち「出会い」を、常に一度限りの出来事として実現しようとする、繊細かつ野心的な「実験」のことなのである。

そこでは「音を聴くこと」の方が「音を発すること」よりも重要な意味を持っている。「音を聴くことと、演奏することの間にはどんな関係があるのか?」(大友)。まずはじめに耳を澄ますこと、そこにある「音」を触知しようとすること。「私」と「あなた」の、どちらが最初の一音を発するのであっても、もはや構わない。

「音」の背後に「意志」があるのではない。「音」という「意志」が、そこにあるのだ。通常の「楽器」のような曖昧な馴致を拒む、無機質きわまりないサイン・ウェイヴやグリッチだからこそ、むしろ「意志」でありえるのだ、という逆説。更に、そんな「音=意志」同士の相互照射こそが、「即興演奏」のコミュニケーション・モデルの、もっともプライマルな形式として見い出されることになる、という逆説。フィラメントが教えてくれるのは、このような事である。

(筆者による『フィラメント論』の結論部分より抜粋しました)


Last updated: May 11, 2001