Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

戦争と日常と

大友良英

この何週間か、かなりの数の友人、知人、あるいは知らない人からも戦争反対署名のチェーンメールが送られて来ています。中には非常に尊敬しているアーティストや評論家の方からも同様のメールが来ています。内容はだいたい同じで、戦争反対の署名を国連、あるいはホワイトハウスやブッシュに送ろう…というものです。そこに書かれている戦争反対に関する内容については、どれももっともなもので、それにどうこう言うつもりは一切ないのですが、ただチェーンメールの署名自体の有効性にはなはだ疑問があるので、一切返事も署名もしていません。が、そのこと以前に、チェーンメールそのものに、その内容いかんを問わず、なにかすごい抵抗感を感じています。それは今回に限ったことではありません。無論、報道や言論になんらかのバイアスがかかっているような現状があったとして、その中で、声なき人々の声を伝える手段として、チェーンメールが一定の役割をはたせるような気もします。だから全面的に否定をする気もありません。これしか手段がない場合も充分ありえますから。でも、わたしが軽い抵抗を感じるのは、チェーンメールが風評などと同じような無責任なものにもなりかねない危険を常に持っているからです。さらに悪意を持った人がいれば、内容を改ざんして多くの人たちに送ってしまうことも可能ですし、多くの署名をそのままコピー&ペーストして、まったく別の署名にはりつけることだってありえるし、もっとセコイやつがいれば、そのアドレスを業者に売ることだって可能なわけで…。

無論、そんなことは百も承知だけれど、今はそんなリスクを言っている場合ではなく、とにかく多くの人々に伝え行動すべき時だ…という意見があることも否定しません。その通りだとも思います。ただ、わたしは、戦争する側だけではなく、反対する側も勇ま しくなっていくことそのものにも軽い抵抗を感じます。そんなことを考えていた矢先、京都でFMN Sound FactryというCDレーベルをやっている友人の石橋正二郎氏が自身の掲示板にこんな書き込みをしているのを見つけました。長くなりますが全文引用します。(注1)

戦争に関することでいくつか反対署名の御願いのチェーン・メイルが戦争前に来ました。署名自体の有効性に対する疑問があるので、ほったらかしにしてますが、この戦争の先行きを思うと暗い予想しかでてきません。なにもしないのもなぁ、とは思うけど、ちゃんとCDつくったり、ライヴ企画したりすることも反戦争にとっては大切。でもなぁ、やっぱりなにもやらんのもなぁ、と思ってチェーン署名に参加しなかったことはちょっと悔やんでます。

しかし、音楽を戦争反対の手段につかう醜さには荷担せんとこうとは思ってます。音楽がなにかのゲストや手段に使われたりするのは、ものを自由に言えなくなることと表裏一体ではないのかな。そういう意味で歌詞優先のメッセージ・ソングも良くない。歌詞がいいからといって説得力があるわけではありません。要は唄う人の力の問題。ヴィクトル・ハラの唄は歌詞も分からなくても、ハラの生涯のことを知らなくても十分に説得力がある。だから、みんなで唄おう、抵抗の唄を、というのは、どうも軍歌に聞こえる。各自が好きな歌を自分で、というのがよいです。(デモやパレードで、ということではないですよ。そういうものに音楽が使われることは、結局、音楽の未来をつぶすことになる、と思います。)どこまでも普通にやり続けることも大事ですよね。よくある基金集めのコンサートは、そんなことせんと、普通に金あつめたらええやん、と思います。音楽がなにかの手段になることだけからは絶対避けたい。音楽が人間の感性に直接訴えるものだけに、どんな種類の音楽でもいつでも何処でも自由に聴けるというのは、たいへん大切です。ある目的に使われると言うことは、聴き方を一定方向に制限してしまう、ということで大変危険なことではないかと思いますがどうでしょう?

しかし、そんなん、ごちゃごちゃ言わんと動いたらええやん、という人もいるでしょうね。

わたしは彼の考え方が好きです。彼は日ごろから非常にマイペースで頑固だけれど柔軟な人で、なによりも自由な音楽を愛している人間です。愛するあまり稼いだ金の全てをつぎ込んで、20年以上にわたり100人も集まれば大入りと言えるようなコンサートを企画し続け、世界中で1000枚くらいしか売れないようなCDを何十タイトルも10年にもわたり作り続け、売り続けているような人間です。ぼくらにはどのみち、戦争そのものを今すぐとめられる腕力は備わっていません。でも、腕力のないものには、腕力のない人間の生き方があって、それは世の中は腕力だけではないんだということを全生涯をかけて主張し続けることだと思っています。具体的には、自分自身の生活なり仕事なりをまっとうし、楽しむことだと思っています。

鶴見俊輔が3月24日付けの朝日新聞夕刊の文化欄に書いていたこともわたしは好きです。反戦運動の根拠を、かつて男性的な人間が振りかざしてきたような生活に根を持っていない「理論」に求めるのではなく、「自分が殺されたくない」に求めるほうがいい…という内容ですが、そこから少しだけ引用します。

(日本の)敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男性は多くいた。しかし夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日と同じく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。

食事をつくるのは女性…というところにひっかかるなかれ。ここに書かれているのは 半世紀以上も前の、男女の役割が分かれていた時代の話ですから。ただ前述のわたしの友人はまさに、ここでいう女性が食事をつくっていたように音楽を作ろうとしているんだと思います。毎日の食卓は、レトランのように派手やかではないけれど、うまいもんだったりするように、自分だけが好きな1000枚しか売れないようなCDを作ることは、彼にとっては毎日の食卓だったりするような気がします。そう考えると、そもそも何百万枚もCDを売ったりするようなシステムや努力そのものが、非常にわたしには暴力的なものに思えてきます。

一方で、わたしはデモにも有効性はあると思っています。2000年春、ベオグラードで当時のミロシェビッチ政権を倒すための民主化デモに参加したことがあります。市内には10万人もの人々が平和的に集会をやっていましたが、このときわたしが一番に感じたのは恐怖心でした。それは政府側の弾圧の恐怖ではなく、巨大な数の人間が一体になって なにかを主張していることへの恐怖でした。とりわけわたしたちは、この中では唯一のアジア人で、明らかに彼等とは顔も異なり、さらに彼等がなにを言っているのかもわからない部外者です。もしこの人たちがわたしたちを異分子だと思ったら…そう考えただけで恐ろしくなったのですが、おそらくこれ以上のリアルな恐怖感を政府側の人間は感じたのではないでしょうか。デモが弾圧されるのは、政府にとってそれが恐怖だから…わたしはあのときそう確信しました。今回の戦争でも、世界中のものすごい人数の人たちによる反戦デモは、特にアメリカの政権に対して、一定の圧力になっていると思います。アメリカがなんとかマスコミや世論を味方につけようとやっきになっている姿が、その何よりの証拠で、デモがもしなかったとしたら事態は今以上にもっと悲惨で暗いものになっているでしょうから。やはり現実には腕力に対して、即効性があるのは悲しいことに腕力で、ものすごい人数なり数という腕力も、実際に事が起こってしまった時には有効…というか必要であるとわたしは思います。沢山の人間が見ている…、武器よりずっと良質の腕力になりえるはずです。

「どうせ戦争はなくならない…」という意見があることも知っていますし、それは多分本当なのかもしれませんが、この手の無力感は、わたしは好きではありません。僕らは無力かもしれないけれど、自分で生きたいように生きたいと思う意志を持っているわけですから。今の戦争がすぐには終わらないとしても、あるいは人間は戦争をしてしまう生き物だとしても、それでも、そうした行為の過ちに対して、なにかを言い続けなければ、同じような過ちが繰り返されるわけですから。こんな不条理なことで、自分の命や家族や友人を失いたくないですから。自分の人生がこんな不道徳なものに踏みにじられたくないですから。

数年前に「音楽は武器のように人を殺せないから美しい…・音楽家に出来るのは無力に音を出すことだけだ」(注2)と書いたことがあります。わたしはここに来てこの確信をますます強くしています。日々の食事を作るように、1000枚しか売れないCDを出し続けるように、自分も決して腕力にはならないような無力な音楽を作り続けていこうと思っています。わたしのような意見は実際の戦争や暴力の抑止には直接的には役立たないのかもしれません。それでも個人個人の無力な生活が世界を作っているような世の中を夢見る自由は失いたくないなと思っています。

2003年3月26日

(注1)FMN SOUND FACTRY掲示板

(注2)Studio Voice 2001年7月号


Last updated: March 26, 2003