音楽に世界を解放する力なんてあるのだろうか?
だいたい何を解放するのか?
音楽はかつて運動だった。連帯だった。横ノリのヴァイブレーションに反戦と反体制を謳歌した60年代末。縦ノリのビートに体を痙攣させ社会に唾を吐いた70年代末。20世紀後半の始まりはジャズ、フォーク、ロックを含むサブカルチャーの存在そのものが政治的ですらあった。80年代に入るとウォークマンの登場とともに音楽が個の所有物になっていく。そこにあるのは横ノリの連帯でも、縦ノリの運動でもなく、個の嗜好をたよりに社会をサバイバルするオタク的な感性だった。音楽から政治の匂いは消されて行く。陰影ある歌謡曲はこの時ほぼ死滅する。さらに時代は進む。90年代にはいると、強大なPAとサブウーハーにより、音楽は体を動かして反応するものから、体をゆすってもらう音響現象へと変化していった。もはやそこにあるのは反社会でもオタクでもなく、あるいは歌ですらなく、ひたすらボディをゆらす音響のエクスタシーだ。そして、再び政治の季節の予感。"日本はアジアの中心"と叫ぶMCに呼応する聴衆達。求心力への渇望。意識を遠くしてボディソニックの海に泳いでいた私たちは、いつのまにか洗脳前段階の無防備な精神状態になっていたのではないか。私たちは今、本当に運動を、連帯を、あるいはかつての音楽がもっていたような主張を取り戻すべきなのか? それともそんなもんに唾を吐きつづけ、ひたすら音響の海に酔い続けるべきなのか? 第三の選択はあるのか?
大音響と電波によるメッセージ。PAシステムを発明したナチスドイツが原形を作ったこの方法で、左右を問わず音楽は政治的、社会的影響力を行使してきた。ヒトラーの声は巨大音響とともに魅惑的に響き、ボブ・ディランは巨大レコード会社の宣伝戦略の中で売られようが、メッセージ・ソングの旗手であり続けた。このスタイルから最強の軍事政権も生まれたし、民主化や反戦活動の連帯も生まれた。一方で直接政治的なメッセージを歌わなくとも、新しい音色と、新しい生き方が社会を変えたのも20世紀だった。50年代のジャズしかり。60年代のビートルズしかり。彼らが直接的、間接的にしろ社会に与えた影響力は、そんじょそこいらの「革命」の比ではないだろう。音楽は社会変革の大きな原動力だった。と、書けば、まるで音楽がすごいパワーで社会を変革したように取られそうだが、そんな甘い話ではない。音楽が政治的たりえた時代は、サブカルチャーが既成文化に対する対抗文化として機能するほどに、社会構造がシンプルだったとも言える。雑にまとめてしまえば音楽が社会を変えたのではなく、植民地と重工業、そして戦争に支えられていた20世紀前半の社会から、冷戦と民族独立運動、大量消費と情報化の社会への変化の過程で起こった社会変化の一要素として音楽やサブカルチャーが機能したということだ。そのままの構図を今に持ち込んだところで、社会の構造があまりに違いすぎる。なにより、対抗すべき敵(大人の作った社会)に対して駄々こねる…が基本でもあったこの文化の担い手達が、実際に大人になったときに作ったのがバブル経済社会であったってあたりも、私たちは肝に命じておくべきだ。しかしその一方で、このとき生まれた様々な萌芽が、70年代以降生まれるサブカルチャーという言い方ですらしっくりこない世界に深く潜航する豊かな音楽鉱脈(ノイズ、即興、レコメンデッド、スカムから今日のミニマリズムや電子音等々に至る様々な音楽)を生み続けている源となっていることも押さえるべきだろう。音楽と社会変革の葛藤はこのポストサブカルチャーの音楽の中で確実に受け継がれて今日に至っている。
パンクはより激しく、ハードコアはより早く、現代音楽はよりアブストラクトに。20世紀の変革の音楽は、常にその前の時代より過激な姿をして現れて来た。それも必ず音楽家の側からの強い意思表示とともに。このベクトルも当分の間は続くだろう。しかし、すでに注意深いリスナーやミュージシャン達は、ここ10年ほどの動きの中から、そうではない変革の方向があることに気づいているはずだ。分かりやすく先駆的な例は名盤解放同盟の活動だろう。左翼活動をパロったような名前のこのクループは、ごみ箱の中の忘れさられた歌謡曲の中から、独特の臭覚をもって、自分たちの推薦盤を発掘し、世に公表してきた。オタク的感性と鋭い批評性の結合。リスナーの耳が音楽家を越えて主張しはじめた記念すべき瞬間だ。彼らがやったことは、「音楽は音楽家が作るもの」という誰も疑わなかった常識に対する強烈きわまりないアンチテーゼだった。リスナーからの強い主張はDJカルチャーの勃興とインターネットの登場とともに、音楽を作る側をも巻き込み、モンドやスカムから音響派にいたるムーブメントを巻き起こし、深く音楽そのもののありかたの地殻変動をもたらしている。
海賊盤を例にとろう。高速大容量のデジタル技術と、インターネット、ナップスターの出現で、まずは海賊盤というマニア向けの希少価値の概念が崩れてしまった。もはやだれでも海賊盤を発信できるし、その中身は別に未発表のライブ音源とは限らない。本物とまったく違わぬコピーを大量に作る中国の裏企業。個人の嗜好でネット上で自由に音楽をコピーしあえるナップスターの登場。アメリカの大企業がいくら中国の海賊盤を責めたところで、てめえの足元の電話回線で、いくらでもコピーが出回ってしまう現実。電話回線は誰にも止められない。法律で規制したところで第二、第三のナップスターが生まれるだけの話だ。もはや海賊盤は携帯電話のように手軽な日常品なのだ。詳しく語るスペースはないが同じ理由でサンプリングの意味も大きく変質した。音が際限なく同じ質でコピーでき、簡単に流通出来る。デジタル技術の進歩と革新が、音楽の意味やありかたそのものを変えていく。こっちのほうが、ステージで旧態依然とした過激な匂いとポーズを振りまく音楽なんかより、よっぽど過激で生々しい政治的な戦場に見える。もはやボブ・ディランやビートルズ、あるいはヒットラーの時代は終わり、音楽と社会の戦場はポストサブカルチャーによる地下戦か、デジタルテクノロジーのゲリラ戦に移ったかに見えていた。が、ある日気づいてみれば、音響エクスタシーによって無防備になった精神に、魅惑的な言葉の砲弾が強力なビートとともにものすごい勢いで飛び込んで来る現実。そのままの自分が立派に見えてしまう心地好いナショナリズムの魔法に洗脳されるままでいいのか? 無防備な精神をさらしたままでいいのか?
音楽は無力だからこそ美しい。それがどんなに過激な音でも武器みたいに人を殺せないからこそ美しい。パンクが駄目だったからこそ美しかったように。音楽がご立派である必要なんてない。音楽家はただひたすら音を出すだけの無力な存在であるべきだ。少々極端な、そしてこの特集に水をさすような言い方だけれど、政治の季節の予感の中であえてわたしはこう主張する。神国なんて言い出す音楽家が出てきたり、ロックが好きだとか言う総理が出てきてからは益々そう思うようになった。今後も音楽が社会に対して何かを主張できるとしたら、それは見せかけの過激さや反社会性、あるいは政治への直接参加などではなく、リスナーと音楽家との関係性にどれだけラディカルでありえるかの鋭利な視点しかない。音楽家が音楽の魅力を武器に政治に乗り出すなんて考えただけで鳥肌がたつ。青年よ、耳を鍛えよ。音楽になんか煽られるな。繰り返す。無力であることのラディカルさを聴き取ること。本当の変革があるとすれば、音による洗脳ではなく、聴くことそのものの変革の中にしか次はない。
大友良英
2001年5月フランス、ナンシー市にて
初出:「Studio Voice」Vol. 307、2001年7月号。特集"レヴォリューション・ポップ〜音楽による政治解放宣言!" の巻頭文として。