もうご存知の方も多いと思いますが、評論家の清水俊彦さんが5月21日に亡くなりました。『ジャズ・オルタナティヴ』『ジャズ・アヴァンギャルド』『ジャズ・ノート』…先生(僕等は心からの敬意を込めてそう呼んでいました)の書かれた著作から、わたしは本当に多くのことを学んできました。ご高齢でこの10年間はペンをとることもなかったので、ここを読んでいる若い世代の人にはほとんど知られていない名前かもしれませんが、60年代から80年代にかけて、ジャズ系の雑誌を中心に精力的にフリージャズや即興音楽といった新しい音楽を紹介し(そう、信じられないかもしれませんが、その昔、ジャズの雑誌が新しい音楽を紹介していた時期があったのです…今はその面影すらありませんが)優れた批評を数多く残した方です。最近では青山真治監督作品『AA』に出演されていたので、その姿を見た方も多いかもしれません(写真はその映画からです)。
60年代オーネットコールマンやアイラーといった人たちの情報は清水先生か、あるいは植草甚一から得た人が多かったのではなかろうか。最初にオーネットを日本に紹介した人と言えばわかりやすいかもしれない。70年代にはいるといわずもがな間章、高柳昌行、副島輝人等群雄割拠の評論家、音楽家、オーガナイザー達がが精力的に文章を発表する中で、清水先生の硬質な決して浮かれることのない文章は、その詩的な表現とともに非常に独特のポジションと輝きを放っていました。
70年代のフリージャズムーブメントが失速する80年代にはいっても清水先生の文章は衰えをみせず、わたし自身は、ジョンゾーンをはじめとするNYの新しいシーンの様子の多くは清水先生や副島さんの文章や、実際に直接お会いして聴く情報から多くを得ていました。今のようなインターネットの時代でもないし、CDの時代でもありません。こうした人たちのもたらしてくれる情報や鋭い批評、視点は、苦労して手に入れたアナログ盤とともに宝物のようにわたしの中で輝いていましたし、それは今でも血や肉となって、わたしのなかに生きています。
先生をはじめ、フリージャズを最初に紹介した世代の方たちは、実に良く現場に足を運んでいました。なにか面白そうなコンサートの会場では、清水先生、副島さん、殿山泰司さん…といった顔を大抵見ることが出来たし、ペンをとらなくなったこの10年間も、清水先生は恐ろしいほどの精力でコンサート会場に現れました。今日に至るまで、わたしのライブを一番多くみてくれた評論家は間違いなく清水先生です。doubtmusicの沼田くんも書いてましたが、晩年はキャロサンプの野田っちや、月光茶房の原田さんが、体の不自由になった先生の面倒をマメにみていて、コンサート会場にもつきそっていました(野田っちはああ見えて、実はやさしいやつなのだ…なんてことを書くとあとでぶつぶつ言われそうだな…笑、でも彼は本当に先生の面倒をよく見ていたのだ)。
恐らく先生が最後に見たライブは2年前の1月にPITINNでやったONJOのライブだったと思う。会場には先生とも親しい札幌のオーガナイザーNMAの沼山さんもいて、終演後はみなで談笑をしたのを覚えている。これが先生とお会いした最後になってしまった。先生ははじまったばかりのONJOの音楽を本当によろこんでくれていて、わたしには恐れ多いくらいのお褒めの言葉もいただいた。高柳さんのまわりをうろちょろしていた生意気ではねっかえりの小僧だったころからわたしのことを知っていただけに、感慨深かったのかもしれないけど、でも、それだけではなく、その言葉はお世辞ではなかったと思う。あのとき、わたしは、はじめて清水先生をうならせるような演奏をした…そう自分では思っているのだ。そんなこともあって、そのときに作ったアルバム『Out to Lunch』は清水先生に捧げた作品だったのだけど、すでに病院のベッドで深い眠りに入っていた先生には届かなかったかもしれない。
晩年は一緒にご飯を食べることも多かった。先生はご病気だったのに、驚くほどの量の酒を飲み、食事はつまむ程度、わたしはひたすらウーロン茶をのみながら、先生が注文する極上の美味いもんを食べた。ONJOのメンバー皆が寿司をご馳走になったこともある。先生のお気に入りはSachikoMで彼女の音楽のアイディアを聞くのを楽しみにしていた。公私ともに本当にお世話になった。いろいろな事情でわたし自身が厳しい立場に立たされたときには、先生の存在、言葉が心に染みた。わたしにとっては本当の意味で恩人だったのだ。非常に厳しいけれど、とても暖かい方だった。
これもご存知の方は多いと思うが先生は昭和初期のアバンギャルド詩人でもある。何年か前、このへんの貴重な雑誌が大量に古本屋に出たことがある。その多くは先生の作品のページだけが切り取られたいたという。この先はわたしの勝手な憶測になるけど、雑誌の出どこは多分先生だったと思う。お金に困っていた方ではないから、お金の為に売ったわけではないだろう。恐らくは貴重な資料ともいえるこの辺の雑誌を自分の死とともに消してはいけないと思ったのかもしれない。ただし自分の作品のページだけは全て破棄して。もしそうだとしたらそこにどんな思いがあったのだろうか。うっすらとわかるような気もするし、もしかしたら、それは、まったくのわたしの勘違いかもしれないし。
心からご冥福をお祈りいたします。どうか現世のしがらみのないあの世で安らかにあられますように。
大友良英