2002年9月1日
大友良英
『ミイラになるまで』の初演は1994年、新宿PIT INNでのことで、それ以降96年のCD化、99年のドイツ語によるオーストリアでの公演を含め何度となく演奏されてきた。その中には作者の島田雅彦さんの朗読による札幌や新潟での公演もあったし、わたしのバージョンとはまったく別に島田さん自身が音楽家を呼んで朗読をされたこともあると聞く。1度として同じメンバーで演奏されたことはなく、作曲や即興の形態もその時々のわたしの興味に応じて可変的であったし、参加してくれたミュージシャンや朗読者はおそらく50人を超えるのではないだろうか。その意味ではわたしの音楽的な変遷を如実に反映し変化しつづけたのがこの作品であった。
ただ、実のところこんなに何度も演奏しながら、わたしはこの奇妙な自殺者の気持ちがいまだによくわからない。そればかりかシンパシーを感じるのでもなければ強い否定の気持ちがおこるわけでもない。取り上げた頃には、それなりのもっともらしい動機もあったのだけれど、はたしてそれが本当の理由なのか今となっては自分でもよくわからない。なんとなく、言葉には出来ない奇妙な魅力に取りつかれている…としか言いようがないのだ。しかも魅力を感じているのが、この作品に対してなのか、実在した自殺者に対してなのかもはっきりしない。はっきりしているのは、この作品が、あるいはこの自殺者が、奇妙で、はっきりとした答えなりがあるものではなかったおかげで、その時々の演奏によって、あるいはちょっとした朗読のニュアンスの違いで、おなじ言葉がまったく異なる意味を帯びたり、ある音がまったく異なる響きに聴こえたりと、上演毎に作品がまったく別のものになっていったことだ。これがあったおかげで "ついつい" わたしは何度もこの作品をステージに乗せてしまったように思う。
とはいうものの、この作品がある人物の死、それも自殺を題材にしていることだけは確かで、そのことへの重圧をまったく感じずに上演することなど不可能なことだ。したがって "ついつい" 上演することへの呵責がまったくない…といったら嘘になる。作品の舞台となったのは1998年から99年にかけての釧路湿原で、作品が書かれた当初は未来であったこの20世紀末もすでに過去になってしまった。わたし自身も推定年齢40歳の自殺者の年齢をいつのまにやら超えてしまった。だからというわけではないが、そろそろこの奇妙な自殺者をわたしの奇妙な音楽から解放してあげる時期が来たように思うのだ。解放にも死にも儀式は必要でこの作品の舞台となった釧路での上演は、最良の場のように思える。この解放と死の儀式で、わたしは作曲者兼指揮者としてではなく、まずは即興演奏家の一員として舞台に立とうと思っている。自分自身も音を出すことで、8年間演奏されてきたこの作品を釧路湿原に眠る推定年齢40歳の自殺者と、この奇妙な自殺者を作品にしてしまった奇妙な作家島田雅彦氏のもとにお返し出来ればと思っている。