Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

極小の記憶 NO. 2

この文章は99年2月9日の「糸」(メンバーは高橋悠治:企画・構成・一絃箏、高田和子:三絃、西陽子:箏、田中悠美子:太棹三味線、石川高:笙、神田佳子:打物)コンサート委嘱新作「極小の記憶 NO. 2」について、作曲者である大友自身がパンフレット用に98年12月に書いたものです。

この2〜3年、私の作風は、大容量のメモリーを前提としたサンプリング作品から、極端にメモリーを切り詰める方向へと大きく変化してきている。

95年の作品「革命京劇」で私は、数十分におよぶ2つのオリジナル音源をばらばらに切り刻み、これをステージ上でハードコアなインプロヴィゼーションを行う演奏者と同時に演奏する作品を作りあげた。これが私にとってはマシーン的にも人的にも最も大容量のメモリーを使ったサンプリング作品だが、この作品を最後に、徐々に、最終的には強烈な勢いでサンプリング自体への興味が失せてしまったのだ。

おまけに実生活での人間不信も加わって、多くの人との関係を即興のセッションで築いていくような、これまでさんざん自分がやりちらかしてきた方法にも不信感しか感じなくなってしまっていた。素晴らしい即興を目指すことは、一歩間違えれば、音楽の価値観の一方的押しつけになりかねないし、茶番となれ合いの果てにあるのは、くだらない格付けと、放漫な音のたれ流しってことにもなりかねない。耳と肉体の無反省な反応に磨きをかけることがミュージシャンシップだって考え方にも嫌気がさしていた。

原点に帰りたくなってきた。「音楽を聴くこと」〜私の原点はここにしかない。音を聴くことと、演奏することの間にはどんな関係があるのか。人の出す音、自分が出す音。スピーカーから出てくる音、楽器のだす音。録音された音、消えていく音。それらひとつひとつの関係を丁寧に見ていくこと。そんな中から、高速でやり飛ばしていくかつて自分がやってしまっていた方法ではない、人との関係のありかた、アンサンブルの方法を見つけてみたくなってきた。

そのためには、手に入れられるだけのメモリーを欲張りに全部使う必要などなさそうだ。身近な人達と音を出し、音を聴き、そしてまた音を出し…。1+1が2や3になるマジックを見せるのではなく、1+1が1だったり、時に0でも美しかったりするのが音楽の特権ではなかったか。大容量のメモリーチップを手にいれる喜びよりも、今あるチップの容量で工夫してなにかを作る方法。楽器演奏者にとっては長年の努力で得て来た技術もまたメモリーだ。本作では、まずは使える技術を極端に限定させてもらった。耳からの情報で、経験則にそって肉体が反応してしまうような演奏が、ここでは出来ないようになっている。そんな中で、それぞれの演奏者も聴衆も同等の立場で状況を聴くこと。そんな中からきらめくような宝物を見つけること。この作品にはそんな意味が込められている。と同時に、私個人の人間不信の処方せんにもなってくれそうだ。

追記:「糸」の人達との共同作業(主に一緒にメシを食いにいくことだったりするが)は、どうやら充分私への処方せんになってくれてるようだ。もしも私が久々に自分のバンドを組むようなことがあれば、それは少なからず、「糸」の皆さんのおかげだと思う。こんな機会を作ってくれてとっても感謝してます。


Last updated: December 29, 1998