Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

『ユリイカ』2006年4月号「特集 菊地成孔」より

オレが再びギターを弾き出したのは

オレには実はギターが弾けない時期が10年間あった。87年から97年のことだ。こんなことを書くと、資料好きの人から、GROUND-ZEROやOPTICAL8でギターもやってたじゃない…といわれそうだ。イエス。確かに、この時期もオレはメインの楽器だったターンテーブルと同時に自作のノイズしが出せない8弦ギターや、フェンダーの67年製のムスタングをステージで結構弾いていた。でも、オレの意識の中では、この間はいわゆるギターというものを弾いていないのだ。正確には自分をギタリストだとは思っていなかった。ある出来事があって以降は、ギターという楽器をオレは弾いてはいけないと思い込んでいたのだ。だからギターをギターのようには弾くまい…いや、弾いてはいけないと思っていて、で、どのみち弾けるようなスキルもたいして備わってはいないと思っていて、だからこの時期にオレが弾いているギターは、ターンテーブルやエレクトロニクスとまったく同じ電気的なマシーンとしての楽器としてこれを扱っていた。

おいおい、菊地特集でお前のギターのトラウマ話なんてききたくねえよ…って声が聞こえてきそうだな。ま、そう思ってる人は、遠慮なくこのページをスキップってことで。もちろんこれから書く話は、オレの話じゃなくて菊地の話。正確にはオレにとっての菊地の話。オレが菊地のことを書くには、どうしてもこの話を避けて通れない…という話に乗ってもいいなって思った人は、この先もどうぞ。


菊地が出てくるまでは、まだ少しかかるが、オレの話を続けよう。さっき書いたある出来事についてだ。1987年の暮れ、オレはある私塾をやめている。オレが心から敬愛していたあるギタリストがやっていた私塾で、ここでオレはギターの基本と、あとはジャズの歴史を勉強していた。この人がだれかということは、申し訳ないけど書けない。この本を読んでる人は、そんな話はどうせ知っているかもしれないが、でもオレは書かない。なんで書けないかは、この先の内容を読めばわかる。20代中盤の大部分の時期、オレは、その彼の私塾に行くと同時に、彼のボーヤ(アシスタント兼運転手)もしていた。彼のことが大好きで近くに居れるだけで幸せだった。いっておくけど、オレはゲイじゃない。けど、男の子にはそういう時期があるのはわかるよね。その心から敬愛していた師匠を結果的には裏切る形で、私塾を飛び出してしまったのだ。自分から飛び出したんだけど、どういうわけか、まわりは大友が破門された…なんてかっこいいことを言ってくれてたらしい。でも、実際は破門なんて、そんな少林寺拳法みたいなかっこいいもんじゃなくて、師匠との関係がこじれてしまい、おまけにギターにも挫折して苦しくなって飛び出しただけ。そもそも沢山いた生徒の中でも、オレは劣等性の部類だったしで、いい訳なんて出来ない。いろいろあったけど。要はオレが跳ね返ったのだ。だから、オレは彼の門下だなんて言えないし、今までも一度も門下生だと言ったことはない。ただ、習いに行ってた時期があって、言葉では尽くせないくらい公私ともに世話になり、その恩をあだで返すことになり、それを修復するチャンス、恩を返すチャンスは、もう永遠にない。なぜならその人は死んでしまったから。そういう話だ。

飛び出した時は、どの面さげてギターなんか人前で弾けるんだよ…って思いだった。もうギターを弾くのはあきらめよう…そう思った。それどころか、日本じゃ居場所がないんじゃないかとすら悩んだ。それでもオレは音楽だけはやめたくなかった。オレから音楽をとったら、当時も、今も、なにも残らないもの。第一、音楽がなにより好きで、他のことなんて考えられなかった。音楽といってもジャスやロックじゃない。飛びっきり汚なくて激しい音のノイズ。とびっきりへんてこなコラージュと即興。当時は、そういうものしかやりたくなかった。だから、ギターを使わなくたって出来る…そう思っていた。幸い電気屋の息子に育ったオレは、すでに十代の頃からライブエレクトロニクスとか、テープやターンテーブルをつかった機械は自分で苦もなく作れて、実際に自由に演奏できたり操作できたりした。門前の小僧ってやつだ。私塾にかよっている間も、ずっとそうした作品だけはつくりつづけていた。余談になるけど高校生や、この20代の頃に作ったライブエレクトロニクスのテープが今も一部残ってたりするので、そのうちアーリーワークスとして出そうと思ってる。今聴いても悪くない。そんなわけでギターが弾けないからって、音楽をあきらめる理由にはならなかった。オレの楽器はライブでのターンテーブルやテープ、エレクトロニクスになった。そんななかでならエレクトリックギターもありだなと考えて、早速ノイズしか出ないギターを自作した。

やる場所のほうも、日本がだめなら、他の国に行けばいいと思っていた。それだけじゃない。単に、ノイズをやるのではなくて、どんな音楽家ともやってみたかった。たとえ不自然な組み合わせでも。否定する音楽ではなくて、肯定するような音楽。出来事を受け入れる音楽。多分そこにはデレク・ベイリーやジョン・ゾーンの影響が、ものすごく強くあったし、実のところ、そのギタリストへの強い反発もあったんだと思う。自分の居場所が無くなってしまうって、恐怖にも近い感情があったのかもしれない。こう書くと、父殺しみたいな分かりやすい話になりそうで、いやになるけど、当時は、そんなこと考える余裕なんてなくて、とにかく音楽をつづけなくちゃ負けだとも思っていたから真剣だった。結果的には、多分これが幸いしたのかもしれない。オレの最初のアルバムは、当時まったく誰も注目をしてなかった香港からでることになり、これが切っ掛けとなって、欧米でも注目されるようになり、さらには香港での仕事や交流が切っ掛けとなって、まったく偶然のようなチャンスで中国映画の音楽をやることになり、これがカンヌで注目されて、その後の映画音楽家としての道も開けたわけだから。


ここでやっと菊地がでてくる。彼と初めて会ったのは80年代後半の、オレが私塾を飛び出して、ライブをやりだした頃のことだ。実は最初の出会いは互いに挨拶すらしてない。オレは新宿PITINNの朝の部にティポグラフィカを見に行き、菊地は西荻窪のアケタの店の昼にやったオレのターンテーブルのソロかなにかを見に来ていたらしい。互いに客とミュージシャン、別に挨拶するでもなかった。客席とステージ上の人数も似たような感じ。オレのライブの客席は2〜3人で、ティポは2〜30人だったろうか。多分、当時からなんとなく双方気になっていたのかもしれない。

正式に共演したのは、さらにその 2〜3年後で、オレが渋谷のビームという、今はけばけばしいゲーセンになってしまったホールの?落としのコンサートをやったときだった。バブル末期で、なぜかオープニングイベントに結構いいギャラがでて、オレはこのホールで10日間にわたって好き勝手なライブをやれたのだ。おまけに入場は無料。最初は100人程度だった観客が、10日後には400人以上にも膨れ上がり、会場に入りきれないくらいだった。で、この最終日、はじめてやった10人編成のGROUND-ZEROのオーケストラ版に来てもらったのが多分彼との最初の共演。オレはターンテーブルとギターでギュインギュインやりながら指揮もして、で、菊地はこのとき、のちのちプレイズスタンダードなんかで演奏することになる香港映画「男達の挽歌」のテーマやら、GROUND-ZEROの1枚目とか2枚目に入っている曲をテナーサックスで豪放に吹いてくれていた。たしか1991年だか92年じゃなかったかな?

以後、映画音楽に入ってもらったり、ときどきライブに来てもらったりで、彼との接点が出来たわけだけど、本格的に交流しだすのはGROUND-ZERO末期、96年に彼が正式にこのバンドに参加しだしてからだったと思う。もしかしたら、その少し前くらいから、頻繁に行き来が始まっていたのかもしれないけど、よく覚えてないや。この頃から、彼のPITINNなんかのセットにも呼ばれるようになり、オレはいつからか彼をなるちゃんと呼ぶようになり、彼はオレを大友っちと呼ぶようになる。オレは彼が、オレのことを大友っちと呼ぶ言い方が気に入っていた。

そんな時期だ、彼が長年やっていたティポグラフィカと、オレのGROUNZ-ZEROがほぼ同時に解散するのは。2人とも、バンドがなくなって、なんとなく、ショックで、オレなどは1ヶ月くらい、何も出来なくてぼ〜っと漫画ばっか読んでいた。でも、この97年から98年の空白のような時期、実は次の10年に起こるいろいろなことが用意されていたのだ。あの時期、ぼくらは今からは考えられないくらい暇で、この時が一番互いの家に行き来したりして、彼の手料理も一番食った時期。当時本人は「サックスは二流だけど料理は一流」なんてギャグをいいながら料理を作ってくれたけど、とんでもない大嘘。サックスも料理も一流だ。

この時期、なるちゃんとオレが会うたびに必ず話にでたのは、もちろんバンドの解散にまつわるいろいろなこと。でもそれ以上に印象的だったのは、互いのガキの頃や20代の頃の話をよくしたことだった。なるちゃんのガキの時分の話が面白いのは、彼の本の読者なら知ってることだろう。で、彼も、いろいろ面白がってオレの古い話を聞いてくる。とりわけ、オレが私塾を飛び出したことや、なんでギターを弾かなくなってしまたかって話を。その頃は、このあたりの話はあまりしたくなかった。挫折の話だからね。話していて楽しいはずかないし、自分の中でこのあたりのことは封印していたのだ。それでも彼とは、この話をよくした。これは彼の才能だとおもうのだが、人の話を聞き出す名人でもある。しかもそれがものすごく楽しい時間になってしまうのが、彼のすごいところ。その場にいる人間が、彼の毒のある会話の中で、まるでシャブでも打たれたかのように楽しく盛り上がってしまうのだ。リハの後、彼の家で朝までうだうだとする…なんてことも度々あった。話は別にオレの話だけじゃない。なるちゃんの話は無論、その時々の話題から、その場にいるミュージシャン達のそれぞれの、面白かったり、悲しかったりする過去の話まで、なるちゃんの司会進行で、みながそんな話を、多少の脚色を交えて面白く話したりするなかで、オレのトラウマとでもいえそうな挫折劇の話は、少しづつゆるやかに相対化されていったように思う。だいたい、あいつは、人が真剣になやんで、ギターをやめて日本を離れようとまで思った事件を、大笑いしながら、時に茶化しながら聞くんだから、ほんとひどい奴だ。でもオレは全然不愉快じゃなかった。楽しかったのだ。今から考えるとあのときのなるちゃんは、オレにとっての精神科のカウンセラーのようなのもで、自分で自分自身を縛っていた呪縛のようなものからすこしづつ解き放たれていったのかもしれない。茶化すんじゃねえ…とか思いながらも、彼の茶化しは、オレを救ってくれたようにおもう。無論当時はそんなことは考えてもなくて、ただ皆でリハのあとなるちゃんの家にいって、とびっきりの旨いメシをくながら、朝まで盛りあっていただけなっだけどね。でも、この空白のまったりしたなるちゃんとの時間と、彼の作るとびきり旨い料理(本当に半端じゃなく旨い)がなければ、オレはギターを再び持つことはなかったかもしれない。もしかすると、奴は確信犯だったのかな。


なるちゃんがオレに直接ギターを弾かせようとしだしたのは、多分PITINNでの彼のセッションが最初で、でもって本格的にはスパンクハッピーのライブからだった。当時このバンドはメインの菊地、原緑以外は、今堀恒雄 (g)、水谷浩章 (b)、芳垣安洋 (ds)、それにオレがターンテーブルとギター。なんというか解散直後のティポグラフィカとGROUND-ZEROの混合メンバーのようなバンドだった。そこで、こともあろうになるちゃんは、オレにターンテーブルやノイズギターだけではなく、普通にメロディやコードのあるギターも弾かせたのだ。同じバンドでギターを弾いている今堀恒雄と言えば、泣く子も黙るエレクトリックギター界では世界でも屈指のギタリスト。なんでオレが弾く必要が…って話なんだけど、そこがいかにも独特の臭覚をもつなるちゃんの彼らしいところなのだ。とにかく彼はしつこくオレにギターを弾かせたがった。で、結果的には、この2ギターが実に独特のアンサンブルを生むことになって、オレにしても、こんな素晴らしいリズムセクションの中で普通にギターを弾くのは気持ちよくもあったし、確かにデコボコしつつも独特のサウンドしているなとも思ったのだ。そんなわけで、オレはここで、初めて譜面に書かれるようなギターを弾くことの楽しさを知ることになる。気づいてみたら、人前で、ギターを弾いてはいけないんだという、自分に課したタブーはほとんど消えていた。少なくともなるちゃんの前では、タブーの発動はなかった。ただ、この時点でも、オレは自分をギタリストだとは思っていない。ギターもちょっとだけ弾くけど、基本はターンテーブルやライブエレクトロニクスの演奏家だとしか思っていなかった。

1999年菊地成孔が結成したバンドDCPRGにオレはギタリストとして迎えられることになる。このバンドが初めて、自分でもギタリストだって意識でギター一本でリズムを刻んだり、ソロを取ったりしたバンドだ。実は、この前から、何度かギターだけでステージに立つセットを試みだしてはいた。そうしたいと、はっきり考え出していたけど、でも自分ではまだ出来なかった。だから同時期になるちゃんをメンバーに迎えはじめたバンドONJQも、当初はターンテーブルもギターも演奏するバンドだった。この時点ではまだ、自分のギターにそういう力があるとは思っていなかったのだ。ところがONJQでもリハを繰り返す中で、なるちゃんや芳垣安洋等メンバーから、ギターだけでやったらどうかという提案がでるようになる。DCPRGのライブやリハを繰り返すなかで、ギターを弾く面白さに効し難くなってもいた。もうひとりのDCPRGのギタリスト高井康生とつるみだしたり、当時やっていたバンドNOVOTONOでも山本精一と2ギターでやるのが面白くなっていて、おまけに杉本拓のギターを聴いて、もうギターを弾きたいっていう自分の正直な気持ちには抗しきれなくなっていた。

1999年秋、欧州から2つのオファーがくる。ひとつはONJQの初欧州ツアーで、もうひとつはAMMのテーブルトップ・ギタリスト、キース・ロウと、杉本拓、それにオレの3人でのツアー。オレは、この即興のセットでもギターだけで行くことを考え出していた。ギターだけで即興をする。自分のバンドもギターだけでいく。オレの中では、後戻りのきかない、私塾を飛び出したとき以来の大きな決断だった。なるちゃんから一本のメール。「人には過去の傷から遠ざかろうとするタイプと、過去の挫折にしつこく立ち向かうタイプがいて、大友っちは後者だよ」。こまかい書き口はわすれたけどそんなような内容だった。このメールが最終的にはオレの背中を押してくれた。

結局この年の欧州ツアーでは、ONJQも、キースや杉本拓とのセットも、オレはギターだけでステージに立った。念のため、よく誤解されるけどターンテーブルをやめたわけじゃない、同じツアーの中でもターンテーブルのソロのセットもやっているしね。ただ、これまで、同時に演奏してきたこの2つの楽器を、状況によって分けてつかうことにしただけだ。いずれにしろ、このことはオレにとっては本当に大きな事件、転機だった。このときのツアーの様子はなるちゃんが当時ネットで小説風仕立ての日記で書いていて、その内容は、オランダで大きな体のチンピラみたなのに絡まれた話とか、スイスでまわってきたグラスが効きすぎてふらふらのグラグラになった話とか、そういった面白い話をまじえつつ、オレが、ジャズのバンドで自分の意志でギターを弾けるようになるまでの話…みたいな感じにちょっとだけ感動的に仕立てられていた。おいおい大袈裟な、と思いつつも、これを読んだときは正直嬉しかった。で、そのとき、はじめて気づいたのだ。なるちゃんにやられたってことを。


ところで今回編集部か来た原稿依頼に、こんなことが書いてあった。

「私たち一般のリスナーにしてみると、お二人は非常に近いようでもあり、遠いようでもある、不思議なご関係に思われます。同じバンドの演奏者として、同朋として、同時代のミュージシャンとして……、大友さんの一番お書きになりやすいトピックで、菊地さんを評してくださいませんか? 大友さんと菊地さんは、いい意味ですごく違っているように感じます。大友さんが有機的で無形の未だ名もなき音の存在を証明し続けるような音楽を創造されているのに対し、菊地さんはメソッドやコンセプト、理念といった "型" の中に個人的な新しさを求めるような音楽を作られている感じと言いますか…(抽象的すぎてすみません)。それでも共演をされていて、一般的には互いにジャズという同フィールドの牽引者として語られています。たとえばその差異は大友さんの中でどう感じられているのか(あるいはいないのか)、今のジャズシーン、音楽シーンの問題も含め、お原稿でお話しいただけたら幸甚です」


なるちゃんやオレが同じフィールドにいるのかどうかはわからない。多分一部はかぶりつつも、僕等の音楽は、活動のフィールドも、その方法もまったく違うのではなかろうか。同じフィールドに見えるとしたら、日本の狭いシーンしかフォローしていない音楽ジャーナズムのせいかもしれないし、もしかしたら、本人達がおもうほどには僕等は違わないのかもしれない。いずれにしろDCRRGとONJQを互いに脱退したのは、根本的には音楽的なアプローチが異なることが原因であるのは間違いない。オレの根っこにある音楽衝動は、どこかでパンクに通じる破壊衝動が根源になっていて、で、その中で具体的に音を出すときの方法は、歌とノイズ、楽器と音響のような両極端に大きく振れるところがって、菊地の根っこにあるのは多分それとは別の衝動と方法なのだ。でも、そういったことを書きたいとはオレは思わなくて、この依頼文を読んでどうしても書きたかったのは、菊地成孔は「メソッドやコンセプト、理念といった "型" の中に個人的な新しさを求めるような音楽」を作っているといふうに世間からは思われがちだけれど、実はその影で、むしろ、個々人の中に眠る「有機的で無形の未だ名も無き」可能性のようなものを音楽の中で引き出すことのできる稀有な才能をもっていて、それが彼の音楽にも充分に反映しているのだ、ということのほうだ。このことをオレは、自分の例を出して書きたかったのだ。

なるちゃんの音楽や文章にはいつも、この世で彼にしか作れない毒みたいなものが絶妙なロジックの中にも彼流のさじ加減ではいっていて、それこそが、実は菊地成孔の魅力の根源のような気がしている。この毒は、時に危険で、時に甘美で、時には薬にすらなるような毒だ。多分こういった毒を作れることが、魅力ある音楽家になるための資質なのかもしれない。彼の作る毒は、薬になったときには、閉ざしていた心の扉を開けることもあるって話だったわけだけど、こんな話面白くないか。ま、面白くなかった人は、オレの音楽スキップしてくれ。オレのほうはおかげで、今もギターを弾いている。これ、もしかしたら薬が効きすぎただけかもしれない。

大友良英(ここではあえてギタリストという肩書きで)


Last updated: June 1, 2007