Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese
ONJQ + OE』ライナー・ノート

フリージャズに出会った頃

大友良英

小学校の後半から大学浪人するまでの10年間をわたしは福島市で過ごした。1976年春、高校2年生になったある日、買ったばかりのエレキギターでアンプから音をだしてみたいばかりに、高校のジャズ研に入ったのが運のつきだった。といっても、はなからジャズなんてオヤジくさいもんに興味はなかった。やりたいのは歪んだ音のロックだったのだが、部員は先輩のS1人だけだし、彼もそのうち受験で部活どころじゃなくなるだろうから、時間の問題で部室とアンプを自由に使えるようになるとふんだのだ。今考えると、実にセコイ。

ところが世間はそんなに甘くない。というか先輩Sはそんなに甘くはなかった。学校一の変わり者で、やたらにドラムの上手かった彼は、とにかくやることなすこと大胆というか、当時の「不良」ともちがって、そんな存在を軽く超えるくらい非常識でめちゃくちゃだった。万引きくらいは常識で、そういうめちゃくちゃさ以上に、なんというかありとあらゆる行動が僕らの考える常識とは違っていて、ドラムが素晴らしく上手かったこともあってか、なにをやっても天才にすら見えたのだ。無論彼には受験なんてまったく関係ない。ただの小者だったわたしは彼に振り回されまくった。このままこの人といたらおかしくなる…と自制心が働いたのは最初だけで、気付くと、わたしは彼のあとを追っかけていた。

ジャズ喫茶に出入りするようになったのもSにつれられてだった。彼は当時福島にあった4軒のジャズ喫茶のうち2軒から出入り禁止をくらっていた。種々の蛮行があったのだろうが、なによりも彼はあらゆる音楽に合わせてすごい音量で机を叩くくせがあって、しかも叩きながら「おい、エルビンのリズムがなんなのか分ったぞ、ここでこうなって…」って具合に、熱くなってしまうのだ。非常にうっとうしかったけれど、彼が「分かった」を言うときは、うそやはったりではなく、多分本当に彼には音楽のマジックが見えていたのだ。そんな彼をうっとうしいと思いつつも、彼とはよくのこり2軒のジャズ喫茶に行った。忘れもしない。「パスタン」と「涅雅」。今もあるこの2軒は、受験校で落ちこぼれてしまった私にとっては格好の逃げ場だったのだ。

10時すぎにごそごそ起き出して学校に行き、1〜2時間だけ授業に顔を出して、昼になると「涅雅」のアルティックのでっかいスピーカーでジャズを聴きながらカレーセット。確か300円くらいだったんじゃないかな。夕方は高校にもどってジャズ研の部室でブンチャカ音を出し、夜になると今度は「パスタン」のJBLのでっかいスピーカーの前でホットサンドをパクパク。そうそう「パワーハウス」ってロック喫茶や、のちに出来たジャズ喫茶「ミンガス」にもよく行った。こういう店で新譜を聴くのが習慣だったし、なにより、どこかに行けば、仲間に会えたのだ。

この頃になると先輩Sだけではなく、学校を越えて変な仲間が沢山出来た。当時のロック喫茶やジャズ喫茶は学校をふける連中の溜まり場にもなっていたからだ。とはいえケンカのつよいツッパリみたいな連中ではなく、もっと軟派な、高校生のクセに女を知り尽くしたような顔をした奴とか、たばこや酒で大人ぶる奴、哲学や現代音楽の話を我が物顔にする奴…。ガキだったわたしと違い、みな大人で、カッコ良く見えた。そんな連中と遊んでいるうちにいつのまにかわたしも本当にジャズにはまっていった。Sみたいに ジャズをやりたいとすら思いだしていた。

あるとき「パスタン」ですごいコンサートがあるという。言われるままに顔を出してみると、ほとんど客のいない店で、汚い格好をしたヒッピーのような人がめちゃくちゃにドラムをたたいている。それが終わると今度は突然狂ったようなサックスソロを1時間。当時山下洋輔の特攻隊のようなフリージャズや、エレクトリックマイルスのクラスターオルガンなんかの激しい音楽が好きになりだしていたわたしにとっても、これは難解でさっぱりわからなかった。わからなかったのだけれど、なぜかひっかかってしまい、次の週もまた彼のコンサートに足を運んでしまった。例によって客は数人。会場につくなり、ギターを貸してくれという。で、いきなりはじめたのが、ものすごい音量のフィードバックギターソロだった。ただただひたすらハウリングするだけ。え、こんなんあり? と当時は本気で思ったもんだ。これが終ると、またあのすごい音のサックスソロ。う〜ん、やっぱりわからん。それでもわたしは彼が来る毎に足を運んだ。この男が当時すでに伝説化していたサックス奏者阿部薫だなんてことは知らなかった。ただなぜか強烈に引っかかった。

季節は過ぎた。先輩Sは東京の大学に進学、学生の間では注目のドラマーになっているなんて噂を聞いていた。大学受験に失敗したわたしは、ガールフレンドの近くにいたいばかりに福島で浪人生活。なんだかしまりがないことこの上ない。その上、その彼女にもふられてしまい、なんとなく一人ぽつんとしていた。ジャズ喫茶やロック喫茶に集まっていた仲間達も東京に進学したり地元で就職したりと、それぞれの道を歩みだしていた。阿部薫の悲報を聞いたのはそんな時だった。若い人間の死を身近に体験したのはこれが初めてだった。一人でいるときに「パスタン」や「涅雅」で彼のアルバムをリクエストしては聴いた。ほんの少しだけれど、彼がなにをやろうとしているのかわかるような気がした。音楽をやりたい。やってみたい。誰もいないジャズ喫茶のスピーカーを見つめながら、わたしはそんことを考えだしていた。先輩Sをたよって東京に出たのは翌1979年。すでに東京のフリージャズシーンはひところの熱気を失っていて、時代はなんとなくフュージョンな感じになっていた。

(注)『ONJQ + OE』のライナー・ノートとして、雑誌『遊歩人』8号のために2002年11月執筆したものに加筆しました。


Last updated: June 22, 2004