大友良英
わたしが音楽の世界に顔をつっこんでから、もう四半世紀が経とうとしている。アナログからデジタルへの移行をまのあたりに見てきた感じだ。実際、機材の進歩と低価格化は著しい。80年代なら数千万円出さなければ手にはいらないようなスタジオ機材と同等の機能をもった機材が、今や私のアパートにだってある時代なのだ。本当に便利になった。と同時に貧しくもなった。
映画の現場でわたしは今だに、実際のスタジオを使って、実際に何人かのミュージシャンを呼んで映画の音楽を録音している。当たり前と思うかもしれないが、これが今や低予算映画の現場では珍しがられるのだ。予算のない映画の多くはコンピュータで音楽を作っている。スタジオをとったり、ミュージシャンを呼んでいたら手元に金なんて残らないからだ。さらっと聴くぶんにはコンピュータか、本物の人間の演奏かどうかなんて、ほとんど区別がつかないくらいデジタル技術は進歩した。予算のないところでも、ある程度のクオリティが保証されるのは悪いことじゃない。ただ、いつも人工調味料ばかりを食いつけた舌には、一流シェフの料理の良さがわからない事態だってありえるのだ。
「最近の部品はもたなくて…」。いつも仕事を共にしているレコーディング・エンジニアが機材を修理しながら漏らした言葉だ。かつて日本のお家芸でもあった、プロ用の高級機材に使える基礎部品を作る技術が、安価な東南アジア製の部品に押されてしまい、絶滅しつつあるのだ。デジタルチップの進歩たるやすさまじいものがあるのに、プロ使用に耐える差し込みのジャックが手にはいりにくくなっているのだ。高級機種の基礎部品に、1〜2年しかもたない程度のものを使わざるをえない現実。結局、彼は何十年も前の高級機材から部品をとって、今の機材に付け替えてるという。物を作る基礎体力が萎えてきているのだ。だから私は物をつくることに頑固であろうと思っている。280円の牛丼も必要だが、1万円を払っても惜しくないだけの料理を作る技術も必要なのだ。江波戸ゼミで私が学んできた、聴いてきた音楽が私の財産になっているとしたら、多分それは、ここに書いてきたような本物を贅沢に味わうことの喜びを先生が教えてくれたからだと思っている。ちょうど音楽の基礎体力をつけたようなものかもしれない。先生の蒔いてくれた種は、確実に私の音楽の中に根付いています。
(2002年4月)