Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

CD『Anode』(Tzadik) ライナー・ノート原文

アノードは、幾つかの演奏上の制限をインプロヴァイザー達に設けることによって作られた作品です。従来の作曲のように、ストラクチャーについては何分間演奏するかという制限以外は一切の指定をしませんでした。したがって、ここでいう作曲とは即興演奏に制限をつけることを指します。

全曲に共通する設定は以下の3つ。
a) 他人の音に反応してはいけない
b) 起承転結をつけてはいけない
c) 普段使っている音楽的な語法やリズム、メロディ、クリシェを使ってはいけない

これをもとにAnode 1〜3それぞれにさらに異なる制限を設けました。例えば、Anode 1では打楽器奏者に対しては「大きな音量で、余韻が聞こえる前に次の音を出す」という指示を、Anode 2では「自分の出した音の余韻がなくなってから次のアクションを考える」、「毎回出す音は一打のみで、かつ音の種類や音色、音量を毎回変えること」というわずか2つだけの指示を出しています。また音色と音量については、それぞれの楽曲毎に、演奏者と相談のうえ、やはり使える音色と音量についての制限を設けています。

他人の音に反応してはいけない…、これが全作品において最も重要なキー・ワードになっています。ただし、ここが重要なのですが、それらの出来事は、他の演奏者の音に耳をふさぐことによってなされるのではなく、大人数の演奏家が同じ場所で音を出す中でなされなければならないのです。この録音ではわたしがいつも使うGOK Soundの一番大きな部屋に全ミュージシャンを集め、ヘッドホンやひとりひとりに配給されるモニターを使わずに、なるべくライヴに近いアコースティックな状態で録音されています。遠くに配置した楽器は遠くに聴こえ、小さい音は大きな音に埋もれる…という、すぐれたPAや録音技術が発明されて以降は絶滅しつつある音楽環境をあえて作って録音しました。

反応を禁止したり、モニターを使わなかったりといった、演奏上や録音環境上の様々な制限は、インプロヴァイザー達の自由を奪ったり耳を塞ぐのが目的ではなく、逆にそうした制限の中で開かれてくる新しい音の聴こえかたが、即興演奏に何をもたらすのかということを見てみることこそがこの作品の根幹とも言えるのです。またその他の設定や制限についても同じように、それによってあぶり出される目的があるのです。

前作の『Cathode』が音の聴き方の設定を作曲によって変える試みだとすれば、今回は即興演奏に制限を設けることによって演奏者の耳の設定を変更する試みということもできるでしょう。また、わたしにとっては今だ大きな存在の高柳昌行の音楽が何であったのかを考える機会を、この作品が作ってくれたのは予期せぬ大きな成果でした。

今回このプロジェクトをやる機会を作ってくださったTzadik、特にJohn Zorn氏に心から感謝します。


以下は実際にはライナー・ノートに載せなかった下書き部分です。

Cathode』が60年代の現代音楽へのオマージュだったのに対して、本作は1970年代以降の東京のアンダーグラウンド・ミュージック、特にノイズと即興へのオマージュになっている。しかし、今回参加していただいたミュージシャンには、そのことは一切伝えずに、アプローチを限定するやり方で演奏してもらった。指定したのは、音符や音形、あるいはどういう世界をつくるかではなく、あくまでも作業の手順のみで、結果的には即興の自由を奪うことに焦点をあてた。従ってここでの作曲とは、演奏の限定を意味する。作業のように物音を出す。耳をそば立てるが反応はしない。演奏者の内面が何かを産むのではなく、作業の手順から生まれる何かと、にじみ出てしまう何か。

わたしのほとんど全ての作曲がそうであるように、本作も参加していただいた演奏家の即興的な演奏能力抜きには生まれ得ない。再現性のある作曲ではないし、誰が演奏するのかを想定して構想されているからだ。その意味で、わたしの作品は作曲と即興という二分法とは別のベクトルにあると思っている。参加していただいた演奏家、そしてエンジニアの近藤祥昭さんに、心から感謝したい。

大友良英
2001年9月 東京


Last updated: February 3, 2002