大友良英
多分1979年か80年、ちょうと20歳くらいの時だ。当時わたしは東京の阿佐ヶ谷にあった四畳半で1軒屋という、なんとも言い難い小屋のようなところに住んでいた。それは大家さんの家の小さな庭の中にあって、おそらくは昔だれかが使っていた離れだったのだろう。四畳半に旧式の水洗トイレと石でできた流しのついた半畳ほどの台所がついていて、家賃は確か2万円だったと思う。部屋には机とベッド、それに安いステレオと100枚程度のレコードに数百本のカセット、あとはいくばくかの楽器と本がところ狭しと置かれていて、ただでさえ狭い部屋は足の踏み場もない状態だったのだけど、このくそ狭い部屋に、なぜか始終だれかが泊まりに来ていて、わたしはほとんど一人の時間がないくらいだった。泊まりにくると言っても、色気のある話ではなくて、ほとんどの場合は大学の軽音楽部関係の仲間の男子で、しかも複数が泊まりに来ることもめずらしくなかった。僕等は大抵音楽の話や映画の話、好きな女の子の話を一晩中、安い酒を飲みながらわいわいがやがやとしていたのだ。
そんな中に、小学校の頃からの同級生アベくんもいた。彼はいったいなにをやって生活しているのか、だいたいどこに住んでいるのかも謎で、ただ、いつもふらりとなんの前ぶれもなくやってくる。しかも大抵は、見たこともない不思議なレコードや雑誌を持って現れるのだ。おまけに持ってきたレコードをうちでひととおり聴くと、そのまま置いていってしまうことすらあった。
あの日のことは今でも鮮明だ。無口なアベくんは、いつもどおりものも言わず、何枚かのレコードを袋から取り出してプレーヤーにのせる。その中の1枚が、輸入されたばかりの『NO NEW YORK』だったのだ。1曲目のコーントーションズが鳴り出した瞬間のことは今でも忘れられない。
「な、な、なんだ、これ!」
もう全てが持っていかれるような衝撃、音楽で世界がひっくり返ったのは後にも先にもこの時だけだ。
学生運動の団塊の世代が夢中になっていたようなジャズやロック、フリーなんかを後追いで聴いていた私にとって、この日がどれだけ衝撃的だったことか。コルトレーンもデレク・ベイリーも、ジミヘンもクリームも、阿部薫も、皆、かなり年上の兄貴達の世代の音楽で、自分はなんだか出遅れてしまったような感じがしていたときだっただけに、「ぼくらの音楽はこれだ!」と、当時本当に、そう思ってしまったのだ。おまけにこの時アベくんが持ってきたもう1枚がロンドンのTHE POP GROUPの最初のシングル盤だった。『NO NEW YORK』といい、あの独特の歪んだ、薄っぺらな録音から聞こえてくる強烈な音に本当にやられてしまった。僕等は『NO NEW YORK』の裏ジャケットのメンバーの恐ろしげな写真を見ながら、当時のニューヨークやロンドンのライブハウスでどんなことがおこっているのかを一晩中想像しながらレコードに何度も何度も針を落とした。
翌日からがぜん、自分の音楽がやれそうな気がして楽器の練習に熱がはいったんだけれど、それがいつまで続いたのやら。かつてないほどの好景気と、ニューアカからハウスマヌカンまで百花繚乱の明るいカルチャーが街とデパートにあふれることになるわたしの大嫌いな80年代は、こうしてずいぶんと不景気な顔をしてわたしの前にやってきた。いま考えるとコントーションズやTHE POP GROUP、あるいはノイズミュージックがなかったら、わたしは明るい80年代をサバイバルできなかったかもしれない。
それから15年後の1995年、GROUND-ZEROで欧米ツアーをしているときにシカゴで一度だけ、コントーションズと対バンになったことがある。このときは他にジム・オルークも参加していたガスター・デル・ソルの大編成プロジェクトも出ていた。今考えるとものすごいライブだったと思うのだけど、かすかにシカゴのクラブの中の風景を思い出すだけで、コントーションズやガスター・デル・ソルがどんな演奏をしたのか、そればかりか、いったい自分がどんな演奏をしたのかも覚えてなくて、あの薄汚れた四畳半での出会いのような鮮明な記憶はない。わたしの部屋に『NO NEW YORK』を持ってきてくれたアベくんとは、数年前に、どこかのライブハウスでばったり出くわして以来会っていないけれど、今でも彼(と思われる人物が)、ネット上に聴いているCDのリストを匿名でアップしている。アベくんかどうか確認したわけではないのだが、そのリストは、25年前にオレの脳髄に衝撃をもたらしてくれたアベくんがそのまま、現在形になったかのようなのだ。だからわたしはその匿名のページに「アベくん」と名づけて、ラップトップの「お気に入り」にいれて、こうして海外ツアーをしている最中も時々チェックしている。もしかしたら、わたしの中のアベくんは複数いるのかもしれなくて、それは、ひょっとしたらジェームス・チャンスその人なのかもしれない。
2005年春
(『No Wave』より)