Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記(99年10月)

(フリー・ペーパー「Tokyo Atom」に掲載。)

@月@日
北京から帰国早々、横浜と埼玉で2日つづけて、韓国のサックス奏者カンテーファンと数年ぶりの共演。即興のデュオ。サックスというジャズの伝統が隅々までこびりついた楽器をつかっていながら、どの先人にも似ていないその独特の音楽は、確かに「孤高のインプロバイザー」の呼び名に相応しい。ゆったりと流れる大河のような演奏を前に、かつてはうろたえたりしたのだけれど、今回の共演は驚くほどうまくいった。

彼は彼の演奏をし、私も私の演奏をし、別に反応をしあうでもなく、でも互いの音に最大限自分の耳が開いているような状態、こんなことはめったにない。いい演奏だった。「即興」とか「共演」することの意味が自分のなかで、大きく変わってきていることを実感するのはこういう時だ。

@月@日
オーストリア・リンツでARS ELECTRONICA最終日のイベント「オーディオトラフィックコントロール」に駆けつける。99年9月9日の夜9時から9時間に渡り一人9分間世界中のアーティストが様々なパフォーマンスをやるという、とんでもない贅沢なイベントだ。企画はアスフォデルのナット・ヒューマン。お芸術畑の音楽家が独占してきたこのフェスにナットやジム・オルーク、イクエ・モリ、メゴの連中が入ってきたもんで、アカデミックの世界から商業主義に身を売ったって文句がでてスキャンダルになったらしい。オレ等が商業主義っていわれるとは思ってもいなかった。どうせ文句をいわれるなら大金かせだ上でいわれたいもんだ。大学の金を使って音楽を作ってる芸術先生も、僕らみたいに、自分の作品を商品として流通するのも、それで生活してるって点じゃ同じだと思うけどねえ。税金で食ってるよりは、責任もって自分の作品を売るほうがオレは好きだけどね。音楽を作って生活している以上、それをなんらかの手段で金にかえて何が悪いのかオレにはまったくわからない。そんなことが非難の理由になるなら、そうした企画には、お金に不自由しないブルジョアさんか、他に仕事をしながら時間を捻出して音楽をやっている人しかでれないことになる。そんなことより音楽を聴いた上で議論してほしいもんだ。アカデミックな連中が自分の権威と生活費をかせぐ場所を荒らされたくないために、芸術を印籠にして商業主義批判をするって構図は世界中にあるってことらしい。

@月@日
東京でクリスチャン・マークレイと共演。オレにとっては兄貴のような存在の、本物の元祖ターンテーブル奏者だ。彼からどれだけ影響を受けたことかはかりしれない。が、だからといって共演がうまくいくとはかぎらない。カンテーファンとの共演とはうってかわって、正直内容はかなりぎくしゃくしたものになってしまった。それはまるで、自分がこの何年か切り捨ててきた自分の過去の本物をまのあたりにしてしまった戸惑いとでもいうべきか。クリスチャンはいつもの彼の演奏をしているのだから、やはりぎくしゃくの原因はオレ自身にあるような気がする。本当に難しかった。「共演する」「セッションをする」ってどういうことなんだろう。「即興」で音楽を創ることがあたりまえの世界に十年以上もいると、誰かと即興でいきなり共演することも、人と会ったら挨拶するのと同じくらいあたりまえのことになってしまう。私の場合はむしろ積極的にあたりまえであろうとしていた節すらある、というほうが正確だろう。もう狂ったように、出会った人と即興のセッションをしつづけた10年だった。でもこの日は自分の中でそうした時期がはっきりと終わりを告げていることを実感した瞬間だった。時として、うまくいった共演より、うまくいかなかったものの中に重要なヒントが隠れていることがある。カンテーファンとクリスチャン、2つの共演のことを考えながらドイツに向かう便に乗った。


Last updated: October 19, 1999