Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記(2002年4月)

5月初頭、ソウルの喫茶店でこれを打っている。外は蒸し暑いが、中はほどよくクーラーが効いている。美味いコーヒー、ギャラリーのように凝った装飾。流れるのはジャニス・ジョプリン、ジョアン・ジルベルト、ゲンズブール、エロール・ガーナー。10年以上前、千野秀一さんや竹田賢一さんにくっついて来た時の薄いインスタント・コーヒーしかなかったソウルとは別世界のようだ。まだ夜中の12時以降は飲食店が営業出来なかった時代だ。当時ソウルであった人達と、わたしはほとんどコミュニケーションが取れなかった。ハングルを解する千野さんや竹田さんをうらやましく思った。そんな中で唯一友だちになれたのが英語の出来たMさんという、わたしより若いキュートでクレヴァーなグラフィック・デザイナーの女の子だった。嬉しくて、その日はずっと彼女としゃべっていた。彼女とは6年前にソウルに行った時にも会った。彼女のボーイフレンドとわたしのガールフレンドと一緒にいろんなところに遊びに行った。連れてかれたちょっとクールなクラブっぽいバーで会った彼女の友人達は、みなかっとんでいていかした格好をしていたっけ。その後、なぜか彼女の親から消息をさがす電話が日本に来たことがあった。無論わたしは知らない。想像するに、彼女は親の反対を押し切ってボーイフレンドと駆け落ちしたのではなかろうか。しばらくして、彼女から「大丈夫、無事結婚したから心配しないで」といった内容の葉書が届いて以降は、互いに連絡を取り合うことはなかった。

ソウルでの仕事は今回が初めてだ。わずか4日の滞在期間にコンサートを3つとレコーディングをこなす。「todayが少しbuzyで問題、timeをfive PM move, OK?」とパクさんからの電話に、「OK, OK No Problem ケンチャナヨ」とオレ。友だちのミュージシャンやエンジニアとは、こんな感じのブロークン・イングリッシュ with 少しハングル & ちょっとジャパニーズのピジン言語で対話可能だ。評論家やオーガナイザー、客の中には留学経験者も多く、不自由なく英語でいけるケースも増えた。そういえば、初めて来た頃はE-mailどころかFaxを持っている人が日韓ともに少なかった。今回はe-mailのやり取りで事前の準備は全て整った。便利になったものだ。考えてみれば、わたしが英語を頻繁に使うようになったのもこの12〜3年くらいのもんだし、e-mailだってまだ5年くらいなもんだ。ソウルは変わったと言いたいところだが、そうではなくて、わたしを含めてみなが平等に10年という歳月を過ごしたってだけなのかもしれない。

滞在最終日、初めての友人Mさんに会いたくなった。彼女の今をちょっと知りたい気持ちもあったけど、なにより素朴に顔を見たくなった。残念ながら電話番号は既に使われていなかった。彼女の両親のほうにも電話してみたが、今度は別人につながってしまった。こうなるとまったく手がかりがない。どうしているだろう。元気かな。たまたま私の名前を見つけて今夜のGIGに彼女が来てくれることを祈ろう。

さて、4月の日記です。

@月@日
ジム・オルークからメール。先月東京で会った時に渡したOTOMO YOSHIHIDE'S NEW JAZZ ENSEMBLEのCD『DREAMS』を気にいってくれたらしい。この作品の中で、賛否のあった彼の作品「ユリイカ」をカヴァーしている。わたしはこの作品が好 きだ。歌っているのは戸川純とPHEW。彼の住まいは昨年の9月11日のテロでメチャクチャになってしまったのだが、やっと落ち着いたようだ。高柳昌行の作品をアナログでリリースしたいとも書いてあった。ものすごく協力したい。したいがオレには出来ない。いつかそういう日がくればいいなとも思う。

@月@日
名古屋シネマスコーレにて相米慎二追悼企画で彼の映画『風花』のサントラのライヴをやる。メンバーはバンドリンの秋岡欧、コントラバスの水谷浩章にオレの3 人。生ギターだけで、しかもそれを使ってコードやメロディのみでコンサートをやるのは初めて、オレにとってはものすごい挑戦だ。『風花』の他にも中国香港映画から『青い凧』や『女人四十』、仲間由起恵の初主演ドラマ『しあわせ写真館』のテーマ曲なんかをやる。このドラマはNHK名古屋が数年前に制作したもので、ショーロクラブを中心メンバーに6人編成で録音した。どの曲も自分で作ったとは思えないくらい気に入っている。こんな機会がなければ再演されることのない作品ばかりだ。シネマスコーレの皆さん、特に企画してくださった李さんには心から感謝したい。機会があればいつか東京でもやってみたい。

@月@日
気温30度、香港。ディクソン・ディーと会う。彼はかつてあった香港初のインディペンデント・レーベル「サウンドファクトリー」のNO. 2で、結成から最後までを看取った人間でもあると同時に、いくつかの名前を使い分け、TZADIKやその他のレーベルからノイズの作品も出している香港地下音楽の重要人物だ。

オレの初リーダー作は1991年にこのレーベルから出た『WE INSIST?』というアルバム。それまでまったく無名だったオレに、彼らはものすごく肩入れしてくれた。その後、欧米に活動の場を見い出せたのもこのアルバムがあったからだ。他にも初めてのサントラ中国映画の『青い凧』を出したのもここからで(この映画は中国政府ににらまれていたので、当時はレーベル名を伏せて発売した)、やはりこの映画のおかげで、オレはその後多くのサウンドトラックの仕事を手がけることになった。

そのディクソンが何年か前に始めた個人レーベル「ソ二ック・ファクトリー」からこの2作品を再発したいという。彼にとってもこの2作は大きな意味を持っていたのだ。さらに、これまで私のやってきたサウンドトラックを全て網羅したBOX SETも企画したいという。オレの中国、香港映画関係の作品は全て廃盤になっていたしで、嬉しい話だ。とにかく香港に飛ぶことにした。香港恒例、豪華なメシを伴う打ち合わせ。潮州や広東、マカオの料理をパクパクやりながら打ち合わせは順調に進む。幸先順調と思いきや、2日目の夜に発熱を伴う激しい下痢と貧血にみまわれてしまった。過去十数年、数えきれないくらい香港に行っていたのに、こんなのは初めて。不覚。慢心するなかれ、何事も心せよ。

@月@日
青山真治、大里俊晴が映画美学校のクルーとともにわが家へ。オレのインタヴューを撮影するためだ。70年代に活躍した音楽評論家の間章を追う中で批評とはなん なのかを探るドキュメンタリーを彼らは作っていて、既にかなりの人達のインタヴューの撮影を終えている。事前の準備や雑談も含めて、僕らは6時間近くも語り続けた。テーマは間章に限らず、フリー・ジャズや即興音楽から今現在の名づけようもない僕らのやっている音楽にまで及んだ。ず〜っと話していたいくらい楽しい時間だった。

ここのところ、どういうわけか、人前でしゃべる機会が急に増えてきた。この撮影の2週間前にも入谷のなってるハウスや、中野富士見町のplanBで長時間の座談会があったし、先月も六本木のゾーンで座談会があった。自分の音楽を自分で説明したくないと思えば思うほど、機会が増えてしまう矛盾。周辺的なことや、質問されたこと、あるいは自分にとっては過去の仕事で、ある距離をおいて整理して見れるものには答えることが出来るが、核心に近くなればなるほど言語化出来なくなる。が、このぎりぎりのよく分からない部分こそが面白いのもよく分かる。自分だって、まだ言語化できないような新しい領域が面白いし、興味があるのだ。

90年代、自分のやってきたことを自分で紹介し、説明しなくてはいけない苦しさをいつも感じていた。だいたい自分のやっていることなんて、自分で説明しきれるもんじゃないし、リスナーの耳のほうが音を出す側以上に、それが何であるのかを理解するものだ。こと自分に関して言うなら、音を出すというのは、理解した音を出すのではなく、理解しえない何かに向かって音を出しているような気もするし。いずれにしろ、こちらの出した音が何なのかを考えてくれる他者が複数現れて以降、自分で説明しなくてはというプレッシャーから解放されたような気がする。こちらから説明するのではなく、リスナーと一緒に考えられるというのは素晴らしいことだ。

インタヴューに対して、その場では無論言葉で考えて答える。インタヴューがなければ実際に言語にして考えなかったようなことも、そこには沢山含まれる。その場での答えはあっているのかもしれないし、間違っているのかもしれない。なにしろ分らないことに無理やり答えを出しているようなもんだし、インタヴュアーの意図が良くも悪くも左右する。それでも、インタヴュアーが誠実である限りにおいては誠実であるようこちらも最大限の努力する。でも結局は本当の意味でインタヴュアー達の真摯な質問に答えることが出来るのは、最終的には自身の作品しかないと思っている。無論、いちいち質問に対応した音を作るわけではない。インタヴューなりの時に投げかけられた言葉が、時間とともに頭の中で発酵し、創作の過程に作用するような、そういったゆるやかな関係でしか、言葉に対して答えることは出来ない。しかもCD化されたものだけが答えというわけでもない。planBで始めるワークショップや、録音ではなかなか実態を見せることの出来ないANODEやポータブル・オーケストラなんかにもそれは反映されているし、今現在ソウルでやっている即興演奏や、来週から行くターンテーブル奏者ばかりのUKツアー、そして6月に作る予定の中原俊監督の新作のサントラのような現場にもその答えは含まれているだろう。さらには、言葉には出来ないと言いながらも、いくつかの大学でやっている講義や、今回のような座談会やドキュメンタリー・フィルムでのインタヴュー、そしてこの日記の中にも音楽作品と同等に思考の過程が刻印されていると思う。絶え間ない過程と更新、オレがインプロヴィゼーションから学んだものがあるとすれば、そういったことなのかもしれない。間章が高く評価し、もっともその紹介に力を 入れたインプロヴィゼーション・ミュージックのパイオニア、デレク・ベイリーの存在が、今日に至るまでオレの中で大きな位置を占めているのは、生き方にまで関わるようなベイリーの即興に対する理念からの影響抜きには考えられない。

ソウルの報告は次号JAMJAM日記2002年5月号にて。


Last updated: May 28, 2002