(フリーペーパー「Tokyo Atom」に掲載。)
@月@日
2000年の幕開けだってのに仕事らしい仕事がない。おかげで久々に自分の時間が出来た。懸案だった新しい電子楽器を自作するために、楽器屋、秋葉原、東急ハンズあたりをうろちょろしながら、その帰りにレコード屋と本屋に行く毎日。なんかすごい楽しいぞ。秋葉原に通うなんて中学生以来。あれから四半世紀たった秋葉原は、別世界のようでもあり、おんなじようでもあり。小さいパーツ屋が密集したラジオデパートあたりは驚くくらい変わってない。不思議なもんで、どこにどんなパーツ屋があるか、ちゃんと覚えている。かなりの店が今もちゃんと営業しているんだよなあ。当時まだ何軒か残ってたジャンク屋(米軍の放出品やら中古のパーツを売る店)はさすがにないだろうと思ったら、これもまだ1軒残っていて、昔懐かしい真空管ものや、70'Sのトランジスタ・ラジオ、ナグラのオープンテレコ、古いオシロスコープあたりのレアもんを山積みして八百屋のよう売っていた。なんだか見てるとうっとりしてくるのは、オレの育ちのせいかな。
秋葉原にはじめて来たのは親父とだった。1970年代の初頭。真空管からトランジスタに主流が移った頃だ。オレの親父は腕のいい電気関係のエンジニアで、家の中は秋葉原のパーツ屋なみに電気部品だらけ。テレビもラジオも親父の手製。おまけにレコードプレーヤーまで自作だった。そういうもんは、父親が作るもんだと思ってたくらいだ。ガキのころ、この部品がむきだしになったプレーヤーにアニメのソノシートとおもちゃの流星号を乗せてハイスピードで回転させて遊んだっけ。きっとこのときもうっとりした顔をしてたに違いない。まさかそのままレコードを回すのが商売になろうとは、思ってもいなかった。
門前の小僧みたいなもんで、いつのまにかオレも簡単なラジオやらアンプを自分で作っていた。きっとオレが秋葉原に行きたがった時、親父はうれしかったんじゃないだろうか。中学生の頃、最後に作ったのがアナログシンセだった。正確には作ろうとした、といったほうがいい。なにしろ当時本物のシンセを見たことがなくて、写真や音から想像して、雑誌にでていたシンセの回路図の記事をもとにそれらしい発信機を作ったにすぎなかったからだ。おまけに未熟な回路と技術のおかげで、シンセの音というには、あまりにも情けなかった。そんなことは本人が一番よく知っている。中学生にはシンセはハードルが高すぎたのだ。それが切っ掛けだったかどうか、その後高校に進学したころには、すっかり自作熱もシンセ熱もさめて、エレキ宅録小僧になっていた。そのうちバンド仲間と、ジャズ喫茶やロック喫茶で遊ぶようになり、学校にもあんまり行かなくなって、家に帰るのも遅くなり、親父ともほとんど口をきかなくなってしまった。で、そのままオレは東京に出てきてしまった。別に親への反抗心なんて、なかったつもりだけれど、こうしてみると典型的な男の子の成長過程だな(苦笑)。
おかげで、すっかり親父とは違う道を歩むことになったのだけれど、職人気質みたいなもんはどこかでしっかり受け継いでいて、多分それはオレが音楽を作っているときの姿勢にも色濃く残っているような気がする。中学の頃の記憶が残っていたのかどうか、今さらリベンジマッチでもあるまいが、今オレが作っている電子楽器というのも半分はアナログシンセの部品をばらして作っている代物だ。いつもは宅録スタジオになっている部屋が、今だけはかつての親父の仕事場のようになっている。やっぱり血は争えないなあ。もっとも本格的な技術者であった親父と違い、オレのは必要にせまられたシロウトの奮戦みたいなもんではあるが。でも、あれから25年、今回はさすがにうまく作れそうな気がしている。