みなさん、おはようございます〜。シカゴとセントルイスのツアーからさっき戻ってきました。今つくばのホテルでこれを書いています。昨夜はセントルイスでのコンサートの後、仮眠をとって早朝の飛行機に飛び乗り、その足で夕方につくば入りして11月の岩下徹さんの公演のためのリハーサルを。
ここのとこほぼ毎月欧州かアメリカにいっていて、この状態が来年の春まで続きます。仕事のオファーがあるのは本当にうれしいことだけれど、ただでさえ体調よくないのに、ハードスケジュールにもほどがあるなあ(苦笑)。来年は少し仕事をへらすぞ!
昨夜は、時差ボケと疲れで、10時過ぎにはもう起きてられなくなってしまいリハーサルを早退して早々に熟睡。で朝6時に起きてしまいました。え?普通じゃないかって。ま、そうですが、朝6時はいつもなら寝る時間。僕等が夜10時に寝てたら仕事にならないじゃないっすか〜。そんなわけで、早朝のつくばの高層ホテルで遠くに見える富士山を見ながら、これを書いています。今日は日本晴れだ〜。
シカゴではジーン・コールマンやTVPOW等、地元ミュージシャンにウィーンのトランペッター、フランツ・ハウジィンガーやSachiko Mを交えて新曲の「ANODE #4」と、あとはONJQの公演を。演奏はどちらも非常に満足いく内容で、録音さえ良ければいつかCDにしたいくらいです。詳細は追ってJAMJAM日記の10月分で。今回は「聴く」の連載5回目をお届けします。
何年か前に高橋悠治さんのワークショップに出たことがある。もう、ここには書き切れないくらい興味深い、示唆に富む話の宝庫だったのだけれど、その中でもとりわけ面白かったのは、音に集中しない聴取の訓練だった。通常僕等のような音楽家はいつでも、音に集中する訓練ばかりをしている。細部はより細部まで聴けるように、焦点を当てた音はどこまでも正確に明確に聴き取ること。そんな訓練を知らぬ間に積んでいたりするものだ。ところが悠治さんがやったことは、これとは逆の、音をぼんやりと聴く訓練なのだ。
まず悠治さんがやったのは、遠くから聞こえてくる音をいちいち認識するところから始める。車の音、カラス…といった具合に。これはいつものように音を集中して聴くという方向だ。が、別の見方をすれば、この方法は音を選別して意味として認識していることでもある。あるいは自分の知っている音を過去の記憶と参照して、その音がなんであるかを認識する作業でもある。仮に過去に経験のない音が聞こえた場合でも「飛行機っぽい音だけれど、地上がら聞こえてるし、工事の音でもないし…」といった具合に記憶と知識を総動員して音の認識が行われる。無論この能力も重要で、これが無くては人間は音からなにかを認識することが出来なくなる。
が、実は音を聴くというのは、この選別して認識する作業のことだけではないのだというのを次の訓練で思い知らされることになる。音に名前をつけずに、ある音に集中せずに、自分のいる状況全体の音をひたすら「ぼや〜ん」と長時間、聴くようにするのだ。たとえば車の音が聞えたとしても、「あ、車の音だ」みたいに音に名前をつけてはいけない。やってみれば分るけど、これはなかなか難しい。すぐになにか目立つ音に気持ち
が奪われてしまうし、そうでない場合も「音に名前をつけまい」という意識ばかりが勝ってしまって、ちっとも全体を耳がぼや〜んと受け入れるなんて状態にならない。が、何事も辛抱…というか、こんなことをやっているとそのうち眠くなってきて、で、その瞬間、それまでバラバラに意味として聴こえてきた音が溶け出して、音と音の境目があいまいな、なんだか全体がもやもやした状態になってくるのだ。「ん? 単に眠いだけ?」とか思ったが、ま、半分はそうなのだけれど、変な意識みたいなもんが切れたおかげというか認識力が低下したおかげなのか、とにかく言葉になるような音の聴え方とは別の全体がもやもやしたものが聞こえ出したのだ。
たとえば余韻のある音が消え入る瞬間によく注意すると、その音が背景のノイズの中にグラデーションのように溶け入るのを聴くことが出来るはずだ。風鈴でもシンバルのような金属でもなんでもいい。なるべく余韻が長いもので試してみるといい。序々に音が減衰していくところに集中して聴いてみてほしい。この余韻が消えて行く時間の中でゆっくり背景のノイズが浮かび上がってくるように聴こえるはずだが、そのとき余韻と背景の音が両方聴える、クロスフェードする時間の中で余韻と背景音が溶け合う瞬間を聴くことが出来るはずだ。この音の境目があいまいな感じが、さっき書いたぼや〜んと聴く方法だと、全ての音に適応される感じになってくるのだ。本来は突出した音以外は大体はそれ以外の音との境目はあいまいで、実は人間の意識やら認識能力のようなものが、ある音だけを明確に聞き出して意味として認識しているってことらしく、だからこの意
味として認識する聴取方法ではないほうの、全体をぼや〜んと聴くほうの脳内ソフトをフルに起動させて、意味聴取のほうのソフトをオフにしていくと、音の境目があいまいになって、なんだかすべての音が印象派的な感じで溶け出すのだ。慣れてくると遠近感すら溶け出してくる。大げさに言えば、今自分を取り巻いている音が、まるでAMMの演奏のような感じになるのだ。あるいはまったくナチュラルな状態でちょっとドラッグっぽい感じになったというか…。いずれにしてもこれは結構楽しめる…なんて思って意識が冴え出すとまた聴こえなくなったり…。このへんはちょと立体視にも似ている。
ま、相当面白い現象には違いないので、その後私はことあるごとに、一人でもこの「音溶かし」で遊ぶようになった。で、これをやると、いつもなら聴こえない音が聴こえてきたりして、集中して音を聴くときよりも、逆にかえっていろいろな音が聴こえてくるようになるのだ。無論ステージで聴こえてくる音も、それまでとはまったく変わってきて、たとえばPAの出す高周波のノイズやらパワーアンプのファンの音やら、照明のノイズが良くも悪くも演奏と同等の音として響いてしまったり、バイブラフォンのべダルを踏むキュウキュウいう音なんかがすごく美しく聴こえたりするようになったのだ。
つまりは、音の聴き方には認識的に聴く方法(はっきりと焦点を当てる聴き方)と、非認識的とでもいうしかない、ぼやんと全体を感じるような聴き方があって、それぞれの聴き方が双方を補完しあって聴取を可能にしているってことらしいのだ。で、それまで私は音楽を聴く際に、前者の、私の価値観で音楽と認識出来るものを音楽として聴く…ってほうに偏って聴いてきたってことなのだ。だからその音楽の語法に関係のない音…照明のノイズとかペダルの音…とかにあまり意識がいってなかったのかもしれない。というか、ないものとして雑音あつかいしていたというか、認識外の音には耳が開いていなかったというか、正確には認識している音だけを把握した時点で、ある種の耳が閉じてしまうために、他の音にまで意識がいかなかったのだ。
それでも他の音はまったく聴こえていなかったかというと、そうでもないのだ。似たような例を出そう。あるバンドのある曲でわたしは、そのバンドの語法とはまったく無関係な高周波のサイン波を毎回流し続けたことがある。半年くらいしたころ、メンバーの一人が「なんかピーって鳴ってるけど、これなに?」と言い出したのだ。彼にはその音がずっと聴こえていなかったのだ。なんて耳が悪い…なんて言ってはいけない。それで
も彼はあきらかに、この音の出ているときと出ていないときでは違う演奏をしているのだ。彼はただ音楽言語のレベルでその音を認識できなかった…つまり意識の上では聴こえなかったのだ。だから逆に彼がこの音をはっきりと認識してしまって以降は、サイン波のあるなしで演奏が変わることが前ほどはなくなってしまい、むしろ意識的にその音を処理する方向に変化した。
さてさて、なんでこの話を長々としたかというと前回話をしたノイズの海と、この話は多いに関係ありなのだ。どう関係あるのかは字数も尽きたので、また次回にしたいが、さしあたりこのぼやっんと全体を聴くってのをぜひ体験してみてほしい。はじめは余韻の消え入るところを聴くことから始めてもいい。出来れば突出した音の少ない比較的静かな、しかし音に遠近観のあるような環境で30分以上はやってみるといいだろう。音に
名前をつけずにぼや〜んとする。かなりおもしろい経験になるはずだ。