Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第4回

「ノイズってなんだろう その3」

僕等は始終なんらかの音の中で暮らしている。無風の砂漠とか特別な無響室にでも行かない限り、そこには絶対になんらかの音が存在する。無響室に入ったことがある人なら分かると思うが、無音のはずの無響室ですら、そこに入ると自身の動く音や鼓動、神経から出る高音が聞えてくるばずだ(注 1)。生きていて耳と脳が機能している限り音からは逃げられない。いやオレはうるさい所も音楽も嫌いだから静かなところで暮らしたいんだ…という人がいたとしても、それは無音の場を意味するのではない。正確には「静かである」とその人が思うことの出来る様々な「音群」の中に囲まれて暮らすという意味だ。

少し耳を澄ましてみればわかると思うが、僕等は途方もないくらい沢山の音の中で暮らしている。静かだなと思える深夜の私のアパートですら聞えてくる音をあげたらきりがない。ハードディスク、時計、2階の住人の足音、車の通りすぎる音、カラス、こおろぎ、どこからくるのか分からないかすかな重低音…。ましてや日中の商店街だったらどれだけの音があるのか見当もつかない。いちいち認識していたらそれだけでもものすごい情報量で、なにも出来なくなってしまうだろう。そう、通常僕等はこうした音に対して無神経というか、なかった事のようにふるまっている。が、しかしだからといって僕等はそれらの音を聴いていないのかと言えば、そうでもないのだ。

通常僕等はいちいち「聴く」ということを意識したりはしない。それはちょうど皮膚が衣服の感触や空気の流れを普段は意識しないのに似ている。意識はしないが皮膚は常に感じているし、耳も常に音をキャッチし、脳はそれをうっすうらと解析し続けている。通常皮膚は服の感触をいちいち認識したりはしないが、もし仮に衣服の状態が変になったり異物が入れば皮膚はすぐそれを認識して意識化する。「ん、なんか着心地かヘン…」とか、「砂がはいっちゃったかな…」といった具合に。耳も同じだ。やかましい繁華街にいても僕等は音情報の多くを無視して歩くことが出来るが、必要な情報だったり、危 険を察知させるような音には敏感に反応するはずだ。仮に繁華街の雑踏に埋もれるくらい遠くから女性の悲鳴が微かに聞えてきたとしたら、すぐさま耳はあなたの意識と直結し、音の出所を探し出し脳に判断を仰ぐはずだ。その後その声を無視するかどうかは、耳の問題ではなく人格の問題になるので、この場合はおいておく。問題は耳から入ってくる音の情報を脳のほうで意識的に処理するか、無意識のままにしておくかを無意識のレベルで選別しているってことがこの場合重要だ。つまり脳は膨大に耳から入ってくる音情報をさしあたり有用か無用かを瞬時に、それも意識にのぼる以前に判断していることになるわけだ。

前回まで私はある情報を伝える際にその障害となるようなモノあるいは現象を「ノイズ」と定義し、「ノイズ」とは相対的なんもんでしかない…という話をしてきた。この場合「ノイズ」は必要な情報の伝播を阻害する要素を指すことになる。ラジオの放送を聞きたい人にとって混信する電波が文字通りこの場合「ノイズ」となるし、この混信する音が大好きでそれをサンプリングしようとしている人にとっては放送局の音のほうが「ノイズ」ってことになる。つまりはその人がなんの情報を必要とするかによって、なんでも「ノイズ」になりえるし、「ノイズ」だったものが簡単に必要な情報に転じる現象も起こり得るという話だった。ところが、前述の人間の聴取に関する営みを考えて行くと、相対的な「ノイズ」ばかりが「ノイズ」ではないような気がしてくるのだ。結論から先に言ってしまえば、そもそも私達は把握出来ないくらいの膨大な音響情報の海の中に暮らしていて、その情報のひとつひとつは丁寧に見ていけば意味や出自をちゃんと持った情報なのだが、先に述べた通り私達はそんなことをいちいち考えていたら生きていけない。したがってその中からなんらかの方法で認識するものとそうでないものを分けて、認識したものの集積で生活を組み立てているわけだが、実際は切り捨てられた、正確には認識はしていないが感じ取っているその他多数の膨大な情報も実は重要な役目を果たしているのではないだろうか。この認識されない、把握することすら困難な膨大な音響情報…それはまるで何一つまとまった意味をなさない情報過多のカオスのようにすら見えるのだが…この私達が暮らす音響情報のカオスを海原のように見たて、「ノイズの海」と定義し、相対的に考えられる「ノイズ」とは別に、そもそも私達は「ノイズの海」の中に暮らしているのだと考えて行くと、それまで考えていたノイズ論とはまったく異なる世界が見えてくるのではないだろうか…というのが、そもそもこの連載を始めた動機なのだ。そんなわけでこの「ノイズの海」について、次回からもう少し突っ込んでみたい。

(注 1)この神経音については、ジョン・ケージが無響室に入ったときの体験として語っているが、なにも無響室に入らなくとも、静かな環境で耳を澄ませば誰でも聴くことは可能だ。人によって聞え方はいろいろあるようだが、私の場合は少し歪んだ感じの高いサイン波のような音が聞こえる。はじめこの音に気付いたとき、耳鳴りじゃないかと心配した。静かなところでFilament等の高音サイン波ものの演奏をしたり聴いたりすると、ときたまこの神経音と干渉して音が聞こえてくることもある。


Last updated: October 2, 2002