Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第3回

「ノイズについて考える その2」
〜うるさい音、大きい音〜

ノイズの話を先に進める前に、今回は少しわき道にそれて「うるさい音」 について考えよう。

 

音のうるささを検討するのは意外とやっかいだ。音が大きければうるさいかというと、そうでもなかったりする。近所の居酒屋から毎夜もれ聞こえてくるカラオケの音を「うるさい」と感じたとしても、それがかならずしも大きい音かどうか、実際は騒音基準以下だったり…なんてこともあるわけで、そうなるとかならずしも「うるさい音」イコール「大きい音」ではなさそうだ。ウォークマンのヘンドフォンから漏れ聞こえるシャカシャカ、携帯の会話、隣の住人のテレビ、よくよく考えてみれば、コンサート会場の音楽なんかよりはるかに小さい音でしかない。でもうるさいもんはうるさいよね。でも、まったく同じ音でも、シチュエーションによってはまったくうるさく感じないことだってあるわけで、たとえば香港に行ったら携帯の会話をうるさいなんて感じてたら生きていけない。なにしろ公共の場所どこもかしこも携帯の会話だらけで、当たり前の環境になってしまっている。繁華街で育った人にとっては静かな田舎町よりも、カラオケが漏れ聞こえるくらいの環境のほうが落ち着いて眠れる…なんて例もあるかもしれない。大自然大好きのナチュラリストにとっては温泉町の渓流の音は素敵な子守歌になるかもしれないが、人によってはこの音がうるさくって寝れない…なんて話も有り得る。つきあいだしたばかりの恋人の寝言は鈴の音のように響くかもしれないが、たまたま泊まりに来た酔っ払いの友人の寝言はうるさい以外のなにものでもない。「うるさい」はあくまでも主観的な感情によって喚起されるもののようだ。無論主観の形成には、その個々人の育った環境や経験、社会や人格までが大きく関係するのは言うまでもない。

そもそも、音の大小に関してもデシベルで表されるような単純に空気振動のエネルギーを数値化したものだけでは、人間が感じる音の大小ははかれない。非常に静かなところで発せられる音と、うるさい環境で発せられる音では、おなじ音、おなじ音量でもまったく違う音の大きさとして認識されるからだ。

これまで私が聴いた音の中でもっとも大きな音ってなんだろう。それはノイズ・ミュージックでもハードコアでもなく、火薬の爆発音、花火の音だ。数年前、フランスのナント市で行われた小さなフェスティバルに出ていたドミニク・レピコの轟音バンドの演奏中にその花火は突如炸裂した。無論実際には、入念に仕組まれたファイアーワークだったのだけれど、そんなことを知らない観客の一人だった私は、いきなり炸裂した爆発音に思わず耳を塞いでのけぞった。相当でかい音でも、びくともしないくらい、いろいろな音楽の現場に接してきた私にとっても、それは物理的に巨大な、鼓膜の能力の限界点に近い音だった。なにしろ同時に演奏していた轟音バンドの音が完全にかき消されたし、その後もしばらくは耳鳴りでバンドの音が遠くに聞こえたほどだ。耳へのダメージも相当なもんで、2日くらいは聴力が戻らなかった。ここまでくると、うるさいなんて思う以前に苦痛でしかない。

前述したとおり、実際に日常生活において「うるさい」と感じる音や、音楽における「大きな音」というのは、ここまで物理的に巨大な音ではないし、むしろ物理的な意味での「大きな音」とは関係ないといってもいいくらいだ。正確には、「うるさい」と感じたり、「大きな音」と感じるのは、聴き手の心理的な要素や、過去の経験や前後の音に照らし合わせて相対的に判断されたり、嗜好によって判断される場合がほとんどで、物理的な意味での「大きな音」は、そう感じる際のひとつのファクターにしかすぎない。

そう考えると「うるさい音」も「大きな音」も主観がそう感じるからそうなるのだ…という点においてはよく似ている。おなじように「小さい音」もかなり主観的なものだ。一般的には弱音で演奏されると思われがちな杉本拓の音は、録音してみるとわかるが意外に大きな音量だったりする。静けさを感じさせる映画のシーンは無音ではなく、大抵はその社会に属する人間が静けさを喚起するような音が仕込まれていたりするものだ。日本だったらそれが虫の音の場合もあるし、遠くから聞こえる車や電車の音だったりもする。これが西部劇であればかすかな風の音だったりとか。仮に東京のシーンでかすかな風の音をながすと、何かがその後に起こりそうな予感を見ている人に与えてしまって、静けさを表すことにはならないだろう。「静か」という概念も「大きな音」同様に物理的に音の小さい状態と必ずしも イコールではないし、社会や個人によっても様々なのだ。

静かなシーンの続く音楽作品の中では、わずか一打のスネアドラムの音が巨大に感じられるだろうし、逆に轟音の音楽のなかでは、同じスネアの一打は埋もれてしまい、小さな音としてしか認識されないだろう。あるいは下手クソなドラマーの音をうるさいと感じることも良くある話だ。へたくそを「うるさい」と感じるのは、もう明かに音量の問題ではなく、快、不快の問題になってくる。クラブのイベントで演奏されるノイズミュージックと、おなじイベントのDJタイムに流れたテクノ、聴覚上はノイズのほうがはるかに轟音感があるのに、実際にメーターを見てみると、実はテクノのビートのピーク音のほうが物理的にははるかに大きなデシベルだった…なんてことはざらに起こり得る。これを快、不快のレベルで考えれば、テクノ嫌いな人にとっては、DJタイムのテクノはどんな音量であれうるさく感じられるし、ノイズ嫌いにとっては、音量なんて関係無くノイズはうるさい…(苦笑)。ノイズなんだからうるせえのは当たり前か。そういや何年か前、NYで初めてFilamentが演奏したとき、エンジニアがどんどん音を小さくしてったことがあって、あまりにひどいんで、途中で演奏をやめてステージを降りたことがあったけど、この時のエンジニアの言い分が「スピーカーが壊れてしまうから」。でも実際のは僕等の後のDJのテクノのほうが何倍も大きな音量だったりして、要はエンジニアが僕等の出すサイン波に生理的に耐えられなくなって、音量をさげたのだけれど、いくらさげてもサイン波の特有の現象で音が思ったほど小さくなってないように感じられたってことなんだと思う。オレの演奏を聴衆がうるさく感じるは勝手だけれど、少なくともエンジニアの価値観でもって、なんの相談もなしに勝手に音楽をいじるってのは暴力みたいなもんで、あれ以降しばらくは2度とNYでなんかやるもんかって思ったりしたもんだ。あのクソエンジニア、まだ仕事してやがるのかな…おっと話がそれた。

前回、情報を疎外するものを「ノイズ」と規定し、そうすることによって、実はどんな音でも状況に応じて相対的に「ノイズ」になり得るという話をした。「ノイズ」というのは特定の音の種類のことをいうのではなく、ある必要な情報を疎外する要素であればどんなものでも「ノイズ」になり得る。この場合「ノイズ」とは常に2つ以上の情報(必要な音とそれを疎外する音)との関係の中で定義されることになるが、今回示した「うるさい」と感じる音の場合はかならずしも2つ以上の音の中で定義されるのではなく、むしろ音を聴く個々人の嗜好や過去の記憶や経験、その人が所属する社会の価値観…といったパラメータの中で判断される。このあたりをとっかっかりに、次なる「ノイズ」の考察へ進んでいきたい。


Last updated: July 10, 2002