Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第23回

消失と君が代 3回

音楽を強制するなんて、国歌を歌ったり演奏することをそれを望まない人に強制するなんて、全体国家のすることだと思っているわたしは、四半世紀ぶりに再会した古い友人、高校教師のOさんが、君が代伴奏拒否をして、見せしめ人事で飛ばされてしまった…という話に驚いたこと、これを切っ掛けに、あえて「君が代」の伴奏のみをクローズアップした「 ミ ヨ」という作品を飴屋法水の展示の音楽として作成、演奏、このときのライブに君が代関連裁判にかかわっているOさんの友人の音楽の先生たちが来てくださり、裁判関連のコンサートへのお誘いを受けたこと、そして、このお誘いに対するわたしの返信。ここまでが前回の内容で、一応要約して返信を以下に載せます。

「ただ具体的にどうするか(私自身)まだ判断がつきません。というのは、わたしの音楽は音楽そのものの中にシンプルな言葉に置き換えられるようなメッセージが込められているわけではなく、むしろそういうものとは対極にあろうとする音楽だと思っています。(中略)わたしのつくるものというのは、はっきりと言葉にできるようなある意見を表現しているというふうにとられないような、具体的な結論をもたないような、そういうものを常につくってきています。なので、この演奏会で仮に演奏するとしても、その音楽が、あることを支持している…というシンプルな構図はつくりたくないと思っています。ですから裁判の無罪を勝ち取るための音楽はわたしにはつくることができませんし、実際、そんな音楽はこの世に存在しないとも思っています。じゃ、わたしになにができるのか。このへんを○○さんと一緒に考えられればと思っています」

このメールに対して主催の先生から非常に丁寧な返信をいただきました。内容は次回のコンサートはさしあたり、前からお願いしていた運動を支援してくださる作曲家の方のみの作品でおこない、わたしとの関係のほうは、この先、どういう形でなにができるのか、ゆっくり考えていきましょう…というものでした。あんなメールを出したのですから、当然の反応です。でも、実は、わたしは、あんなメールを書いておきながら、いくつかのハードルをクリアできれば、コンサートに出ようかと思っていました。思っていたからこそのメールでした。

越えなくてはいけないハードルとは、まずは主催の方が、わたしが送ったメールのように、政治的に白黒をはっきりさせない音楽の演奏をすることも許容するのかどうかという点。わたしは、断じて、音楽がシンプルに言葉にできるような政治的、あるいは経済的な主張の代行をすべきではないと思っています。政治をおこなうのは、政治の手法ですべきで、そこに音楽やアートそのものが介入するのは、とても危険なことだと思っているからです。音楽は時に人を盲目的に熱狂させます。その意味では宗教の儀式ととても似ているものです。こんなものが政治のための道具になったらどうなるか、考えただけでも身の毛がよだちます。もちろんわたしのやっているような音楽は、通常多くの人たちをトランス状態にしてしまうような効果はありません。それでも、少ない人たちの身体や知性に言葉を介さずに直接訴えかける力は充分備わっていると思います。なのでわたしの音楽が、政治の文脈の中に置かれることには注意深くあらねばと思っています。「音楽は、どんな主張であれ絶対に言葉に置き開けられるようなものを主張する道具、あるいは政治の道具にすべきではない」。これがわたしの主張です。

もう2点ハードルがあります。ひとつは主催者が、政治団体に直接支援を受けていたりしないこと、そして、政治集会ではなくコンサートがメインかどうか。これは、上記のわたしの主張を補足するためのハードルです。そしてもうひとつ。わたしの音楽が、ほんとうにあなたの主催するコンサートに必要かどうか、そして、あなたがわたしの音楽を本当に聴きたいと思ってくれているのかどうか。これは一番大切なハードルで、別にこのコンサートに限ったことではありません。

で、この3つのハードルはもしかしたら、メールのやり取りの中で意外と簡単に越えられるかもしれないなと思ったのが、そもそも、前回のメールを送った際の判断でした。もちろん裁判支援のコンサート自体、政治的だし、そう考えると、そこに音楽で参加するのはどうかなとも思うのですがでも、実際に被告に立っているのは、どこの政治組織でもない音楽の先生たちですし、そんな中の仲間に、わたしの旧友がいるとなると、やっぱり、どうにかならないものかと思ったのも事実です。こうした運動が、左翼くさい人たちだけでやってるんだろうなって思われたら損なんじゃないかって思いもあって、わたしのような外部の立場の人間が、学校の先生というポジションや、あるいは日教組のような政治的にある程度のバイアスのかかった組織とは無関係に、なにかを発言したり、「君が代」を肯定するでも否定するでもない上に裁判を直接支援するわけでもなく、ただ、こうした出来事が切っ掛けとなって生まれた作品を演奏するのは、運動にとって有意義かもしれないと思ったのです。なぜなら、わたしのような異物が混入することと、こうしたやりとりをすることによって、運動にある種の豊かさを寄与できるはずだからです。もちろん、そうしたこと以上に、なによりも、実際に裁判の当時者の先生が、コンサートに来てくださり、話をしに来てくれたというのは大きくて…ということ自体をちゃんと正面から受け止めたいと思ったのが、今回関わろうと思った一番の理由かもしれません。そんな中で「君が代」の学校での伴奏のことを、こうした文章やメールで議論するだけでも、仮にコンサートに出なくても意味はあるかなと思ったわけです。今回のコンサートには出ませんが、この先も継続的に、わたしがどう関われるかを彼らとともに考えていこうと思っています。この点については、またなにかの機会にネットなどで随時報告します。

さて、今回ここで、わたしが聴取の観点から考えたかったのは、たかだかシンプルな数個の音列にすぎない「君が代」に、とてもここには書ききれないくらいの政治的な意味がこびりついているってのは、どういうことなんだろうってことです。たかだた数個の音列…と書きましたが、もしかしたら、たかだか数個の音列だからこそ政治的な意味ももびりつきやすいのかもしれません。これが例えば12音技法で書かれた複雑な音列とハーモニーをもっていたら、絶対に政治的な意味なんてもたなかったでしょう。この場合、シンプルさは重要です。現在の「君が代」のアレンジはユニゾンのシンプルなメロディに始まり、少しづつハーモニーが増し、ドラム他多数の楽器が加わってさんざん盛り上げたところで再びユニゾンで終息するという構造をもっています。これって、なんてことはない、わたしがONJQでよく演奏していた「ユリイカ」の構造とほとんど同じです。「ユリイカ」の場合は、シンプルにメロディを提示して、それがユニゾンで延々繰り返される中で、フリー的なビートと複雑な倍音を含むノイズが重なり合っていく。大雑把に言えばほとんど同じです。う〜む、これは由々しき問題かも…ということで、このつづきは次回。

大友良英


Last updated: December 30, 2005