Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記5月別冊 連載「聴く」第2回

こんにちは。ロンドンからの配信です。

この2週間マルタン・テトロ等8人のターンテーブル奏者とともに、イギリス国内のツアーをしていました。連日バンで移動の厳しいツアーを今日終え、ツアー・メンバーやクルーとロンドンのマレーシア・レストランで打ち上げをして、今ホテルに戻ってきたところです。いや〜、やっぱ打ち上げは楽しいっす。もう、これがあるからミュージシャン生活を続けられるようなもんで。そんなわけで、ツアーの疲れもふっとんで、これを書いてます。特にマルタンは、わたしにとっては音楽の上でも私生活でも同士というか大親友といえる数少ない一人で、彼との仕事は楽しいだけじゃなく得るところも多くて、ま、詳しくは近々アップのJAMJAM日記の中でってことで、今回は連載「聴く」の第2回を配信します。


「聴く」第2回

「ノイズについて考える その1」
〜ノイズの相対性理論の限界〜

お目当ての彼女とバーに行ったとしよう。初デートでもいい。あなたは彼女の言葉を聞き漏らすまいと神経を集中するあまり、カクテルの味さえわからないくらいだ。話は予想を超え盛り上がる。彼女の気持ちをゲットできそうだ。と、そこに突如あらわれたバンドの演奏。ライヴのある店とは知らなかったあなたにとって、バンドの演奏は会話の邪魔になるノイズ以外のなにもでもないだろう。

が、実はこのバンド、一部には絶大な支持のある知る人ぞ知る往年の名ジャズ・バンドで、店にいる客のほとんどが、このカップルを除いて、久々にステージに立つ彼らを目当てに集まった客だったとしよう。バンドの演奏が始まっても、一向に話をやめないどころか、ますます大きな声で話す場違いのこのカップルは、バンドの演奏を聴きに来た人々にとってはノイズ以外のなにものでもないってことになる。


わたしにとってノイズとは、まずは、特定の音を指すのではなく、相対的なものだった。まずはと書いたのは、その先の別の話があるからだが、それは次回までひとまず置いておく。彼女の声を聞くためには、すばらしいジャズのライヴがノイズになることだってありえるのだ。

極端な例を出そう。例えばあなたがモーニング娘。のファンで、彼女達のコンサートに行ったとして、そこに突如デレク・ベイリーがなんの脈絡もなくギターを持ってステージに現れ、モー娘。とは無関係に演奏を始めたとしよう。これはもう、彼のことなど知らぬ多くのモー娘。ファンにとっては大ひんしゅく、ベイリーはノイズ以外のなにものでもない。が、今度はこれが逆転して、ベイリーのコンサートに突然モー娘。が乱入した場合はどうだろう。今度はモー娘。がベイリーを聴きに来た人達にとってはノイズってことになる。仮に両者を録音したとして、音響現象としてはまったく同じことが起こっているとしても、場のシチュエーションによって、何でもノイズになりえるし、逆にノイズだったものがそうではなくなることもありえる。例えば、会場に来ていた連中の中にポストモダンな奴がいたとして、そいつが、この状況を全て面白がり、おまけにこれを録音して海賊盤まで出したとして、これが後々語り草になって音楽として評価されるという事態が起こったとしたら、この場合モー娘。もベイリーもノイズではなくなってしまう。

ここでわたしが言っているノイズとは、ある必要な情報にとって障害になるものとでも定義すればいいだろうか。そう考えると、必要な情報を阻害する要素なら、なんでもノイズになるし、あるいは必要だと思っていたものが必要でなくなったりした時点で、それまでノイズだったものはノイズではなくなるし、またさらに、ノイズだと思っていたもののほうが必要な情報になった場合、それまで必要だった情報のほうがノイズになることだってありえるという話だ。

あなたはAさんに惚れてるとする。ところがAさんはあなたを見向きもせず、実はあなたに惚れているBさんが、あなたとAさんが近づくのを邪魔したとする。あなたにとってBさんはノイズになるし、Bさんを中心に考えればAさんがノイズになる。ところがあなたはAさんへの興味を失い、いつのまにかBさんの虜になり2人は結ばれたとする。ここで今度はAさんのほうがあなたにアプローチをするのだが、すでにAさんへの興味を失っているあなたにとっては、今度はAさんがノイズになってしまう。ノイズとは極めて相対的なもので、何を中心に考えるかによって、何がノイズになるかはコロコロと変わる。

ここまでが80年代から90年代にかけて私が考えていたノイズだ。この考え方で私はいろいろな音楽を作ってきたし、それはそれで、かなりの成果も残せたと思っている。しかし、この考え方には、ひとつ大きな欠点があって、それは、初めから耳に入ってくる情報を有益か否かで分けて考えていることなのだ。すでに耳に入った時点である種価値観のフィルターがかかっていて、そのフィルターの中心点を移動することによってノイズの意味が変わるのはいいのだけれど、フィルターを設定すること自体への根本的な問いかけが欠けているのだ。情報そのものの検証と質をみること以上に、相対的に価値観が変動していく妙味に視点がいってしまった時に、私ははっきりと行き詰まってしまったように思う。いつの頃からか、このことに気づいた時点で、わたしは「聴く」ということを考えはじめた。フィルター設定そのものを検討するためには、それしかないと思ったのだ。「聴く」ことからもう一回考え直せないだろうか。耳にはいって来たものを、まずは分け隔てなく聴くところから始められないだろうか。耳をそばだてることから、もう一回始められないだろうか。そう思い出した時、私にとってのノイズ観はそれまでとは大きく変わりだした。


Last updated: May 28, 2002