Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第19回

ご無沙汰です。

今は4月11日サンフランシスコからです。planB 通信に連載してる「聴く」いよいよ最終章にはいってきました。先月末に書いたものを今回はメルマガで配信します。これをまとめて、もう少ししまった形でなんとか年内には本にできればと思っています。


最終章 その1「音質と記憶の話…あるいはメソッドと呼ぶべきか」

今は3月27日午前6時のサンフランシスコにいます。欧州ツアーからアメリカに飛んで、もう時差ぼけで何がなんだかわからなくなってる中でこれを書いております。しばらく間があいてしまいましたが、今回はまた「聴く」にもどります。というのもこれを書いている1ヶ月前に出た雑誌『ユリイカ』でポスト・ノイズの特集をやっていて、この特集のなかで一番わたしの興味を引いたのが、菊地成孔が持ち出してきた iPOD以降の音楽はどうなるのか…という質問の設定と、澤井妙冶が書いているMP3等のデジタル圧縮による音楽再生と記憶の問題でした。このへん考えれば考えれるほど、この「聴く」の話とストレートに結びついてきます。

今手元に肝心の『ユリイカ』がないので引用できないのですが、この点で一番面白い答えを出していたのがネット上での細馬宏通の発言です。『ユリイカ』のほうを読んでない方でも、まずは彼の文章を読んでもらえれば、音質と記憶についての話が少しみえてくると思いますので、まずは長くなりますがこれを引用します。


『聴き方のメソッド化』

大友さんがユリイカの「ポスト・ノイズ」鼎談の中で、iPodの音が耐えられない、って話を書いてるんだけど、逆に言うと、iPodの音質でも生き残る音楽ってのがいろいろあって、それがiPodに乗っかるんだよなあ。そして、残念ながら、というよりはある種の必然なのだが、たとえば大友さんのanodeはiPodでは聞けない音楽だと思うし、じっさいぼくのiPodには入ってない。しかし、それは聞くに値しない、という意味では、まったくない。

これは菊池・大谷両氏のバークリーメソッド問題ともかかわると思うんだけど(といいつつじつはまだ彼らの本を読んでないのだが)、メロディとかコードとかリズムとかいう記号がもはや血肉化されてしまった聴者には、iPod音質で満足できる音楽世界というのがあるんだと思う。とりあえずスーパーベースとハイハットのアタックがあって、たどりうる旋律、たどりうるコード、その他音質の劣化をくぐり抜けてくるいくつかの手がかりがあれば、あとは聞く方でなんとかする、別に直接耳をいじっていただかなくてけっこう、てな、聴き方のメソッド化がすでにして起こってる。つまり、再生に必要なメソッドは聞き手の頭の中にあって、聞くという行為のかなりの部分はじつは聞き手の頭の中に依存している、というのが現状だと思うわけです。

実はこのあたりのことをネットで書いたときに iPODはMP3方式の圧縮録音だけではなくて、もっと音のいいファイルにも対応しています…という指摘を各方面から受けました。たしかにその通りで(だからといって必ずしも音がいいかどうかは別ですが)iPODだけではなく、あらゆる録音再生装置というのは、そもそも原音とは別のものなわけで、ここではその質の良し悪しを言いたかったわけではないのです。とりわけデジタル圧縮を使った再生装置は、iPODのみならず最近のCDプレイヤーなどでも、たとえば15KHzのサイン波を入れたりすると、まったくサイン波とは別物のジーっという歪んだ矩形波のような音になる装置というのは沢山あります。それでもこうした再生装置は、通常の音楽を聴くぶんにはとてもいい音に聞こえたりします。でも、これではFilament BOXなり池田亮司の「+/-」なり、あるいはわたしのCathodeなどはまったく別の音楽に、時にはただのジーっという音だけにすらなってしまいます。

たしか『ユリイカ』の中で澤井妙冶はこれに似た例を出して、音楽には個々人の記憶を参照してする聴取と、そうではない聴取の可能性があるのではないか…というようなことを書いていました。iPOD再生可能なものは前者で、後者の音楽には向いていないというようなことを…違ってたらごめんなさい、なにしろツアー中の 身、手元に資料がないもんで…。この話はとっても面白いし、現にFilamnetにしろ、あるいは、音響と呼ばれるような即興の音楽では記憶にたよらないような演奏をしようとしていた節すらあります。で、今までここで書いてきたデレク・ベイリーの ノンイディオムという考え方の即興演奏も、限りなく、この無意識に稼動してしまう記憶を参照する聴取、あるいは記憶を参照してしまう演奏から逃れようとする試みとも思えてきます。実際、わたしもそんな演奏ができないか、ずっと、ここのところ考えてきたわけです。でも…、でも、なんです。記憶にたよならい聴取とか記憶にたよらない演奏なんて、ありえるのだろうか? って自分で言っておきながら、ふと思うんですよね。勿論そんな理想郷のようなことが出来たらそれは最高に嬉しいのだけれど、そもそも人間の思考なり営みというのは全て脳や何かの記憶によっている訳で、ここから完全に逃げることなんて死以外にはありえない…なんてあたりをここのところグルグルと弱い頭で考えていたのですが、ツアーの日々の疲労の中で、すっかり思考停止しておりました。そんなときに、細馬さんのネットを見たら再び助け舟の文章が、細馬さん事後承諾ですが引用させてください。


『「記憶」と呼ばずに「メソッド」と呼ぶ理由』

さて、前回、「メソッド」っていうことばを使いました。この「メソッド」、頭の中にあるものなんだから、いっそ「記憶」って言ったほうがてっとりばやそうな気がしますよね。じっさい、澤井さんや大友さんの話では、ぼくがこの前書いたのとほぼ同じ話を「記憶」ということばを使って語られています。というか、ぼくが彼らの話を読んであとから書いてるんだから同じ話になって当然なのだ。

で、ぼくは論旨としては彼らにまったく賛成なのですが、「記憶」ということばはちょっとやっかいなので、あえてこれを避けて「メソッド」ということばを使った次第。

というのも、「記憶」に頼る音楽と頼らない音楽、という風に分けちゃうと、じゃあ、「記憶」に頼らない音楽ってなんだよ、と考えたときに、いささか面倒なんです。極端に言えば、あらゆる時間芸術は記憶から逃れることはできない。

たとえば、いままでの記憶を全部とっぱらって、いま、この瞬間の一発に耳を澄ますのが目指すべき音楽か、というと、じつはそうは問屋が卸さない。というのも、「いま、この瞬間の一発」というのは、「瞬間」とか「一発」とかいう言葉を使うからなんだか前後の時間を欠いた点のように聞こえますが、それはやはりある時間の長さを持ってるわけで、時間の長さがそこにある以上、それは記憶からも逃れられない。だから、問題は、記憶を排除するかどうか、ではなくて、そこで更新されつつある記憶がどのようなものか、ということだろうと思います。

あ、なるほど。この更新されつつある記憶…ってところと、記憶ということばを使 わずにメソッドと置き換えているところ、なるほどなあ…って思いました。そもそも人間の記憶というのはどこかに固定されて置かれているのではなく、ゆるやかに絶えず更新されるネットワークのようなものではないか…という考え方があります。これはとっても面白い考え方というか納得のいく考え方で、僕等が絶えず音楽を更新しつづけなくては満足できない理由もここにあるし、なにより生命というものがそういうもののような気すらするのです。彼のネットにおける論考はさらに面白いところまで突っ込んで書かれています。これ本当に面白くて全部引用したいくらいです。もしもネットを見られる環境にあるかたは彼の http://d.hatena.ne.jp/kaerusan/ を見てみてください。とりあえず彼の文章からまた一部を引用します。


ジャズ喫茶やクラシック喫茶の衰退は、学生運動的気風の衰退とか、CDの登場によ るレコード資産の運用の困難化とか、いろいろな説明が付くと思うけど、少なくともその結果現われたのは、オーディオを介した「原音」志向の衰退だと思う。だって、CDが登場したからって、聞き手の住環境がそれほどアップグレードしたわけじゃないもん。(中略)ともあれ、もはや、録音の空気を再生しなくても、わたしたちはなぜか音楽を楽しめてしまうという事態を迎えていることは確かなのだ。そして、それはわたしたちの頭の中の「メソッド」によって可能になっている、ということも。

やはりiPODの登場は単に音の良し悪しの話ではなく、音楽を聴くということがこの 20年根本的に変わってきていることの象徴的な出来事のように思えてならない。それはもしかしたらジャズ喫茶のような原音になるべく忠実に再生するようなことがオーディオの機能ではなくなり、ウォークマンの出現とともに空気を振動させるのではく個人の鼓膜を振動させるのが音楽になったころから、言い換えるなら空気の振動を介して皆と場を共有するのではなく、他人を遮断する機能を音楽が備えたころから徐々にはじまった現象なのかもしれない。

今、iPODだけでカバー出来る音楽に、わたしの生理の部分が理屈にならない悲鳴をあげている。悲鳴の理由は、たとえば自然回帰のナチュラリストの話とか、原音主義者の話とかではない。無論わたしはMP3も沢山聴くし、それで楽しめる音楽も沢山ある。問題は、これらの音楽を聴くときの、細馬さんが「メソッド」と呼ぶようなものに対する無抵抗ぶり、というか無感覚ぶりへの悲鳴なのかもしれない。なぜなら、それは、たとえば人間が自分とは違う異種の文化に対して、生理の部分で差別をしてしまう感性ととてもシンクロしているような気がするからだ。これについては、まだまだわからないことだらけ、疲労困憊のツアーミュージシャンの試行錯誤はつづく。


Last updated: April 15, 2005