Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第18回

ご無沙汰してます。お元気ですか?

わたしのほうは、9月以降の欧州ツアーを全てキャンセル日本でのんびり…という計画がすべて狂って、日本にはいますが、狂ったように忙しい毎日です。とはいえ、おかげさまで、心配かけました頚椎や腰のほうの症状、すっかり消えて、1年ぶりに体に痛みや痺れのない快適な日々を送ってます。痛みがないってのが、こんなに快適なの忘れてました(苦笑)。

え〜と、明日になりますが、20日京都西部講堂でベースのナスノミツル、ドラムに外山明、ゲストに津上研太を迎えて、初めての編成でバリバリのサイケデリック・ロックをやります。他には山本精一、DCPRGなんかも出ます。チケットまだあるようなので、お近くの方はぜひ。

他にもお知らせしたいこと沢山あるんですが、また後日に。

JAMJAM日記さっぱり更新できず恐縮しております。今回は、8月に久々に書いた連載「聴く」の18回、デレク・ベイリーについてです。


「音響とはなんだったのか 3」
----ふたたびデレク・ベイリーについて 2----

ご無沙汰してます。連載、たいぶ間が空いてしまいました。前回までのおさらいをすると、わたし個人の中でこの10年に起こった、いわゆる「音響」とはなんだったのかを考えるにあたって、どうしても70〜80年代初頭のフリージャズとフリー・インプロヴィゼーションの問題は避けて通れないこと。そこで当時の自分の体験に引きよせてその問題のおさらいをしようというのが、ここまでの流れで、その中で、田中泯、ミルフォード・グレイブス、デレク・ベイリーのMMD計画と題された80年代初頭の公演が、最初うまくいかないのではと思った…というところまで話をした。今回はなぜうまくいかないと思ったのかという話から。


今から四半世紀前の20歳そこそこのわたしは、異なるものが共演するということが今ひとつ納得できなかった。一番凄そうなものを一緒にやればもっと凄くなるってのは、なんか安易なんじゃないかと思ったのだ。それは例えるならアントニオ猪木とモハメッド・アリの、なんだか煮え切らない異種格闘技試合を思い出させたのかもしれない。プロレスとしても中途半端、ボクシングとしてもぱっとしない試合を僕らはテレビで見させられたばかりの頃だった。そもそも、ベイリーがフリージャズとは異なるフリー・インプロヴィゼーションの道を歩んでいることに強い興味を持ち出していた私にとって、当時すでに過去の音楽になりつつあるように思えたフリージャズのドラマーであるミルフォードと共演しなくてならない意味が飲み込めなかったし、そのことでベイリーの目指す純粋な革新の方向が濁ってしまう気がしたのだ。そのうえダンスにはイマイチ興味がなかったりしたせいもあって、ベイリーはベイリーだけで、ミルフォードはミルフォードだけで別々に聴きたいな〜…と正直思っていたのだった。それでも見に行ったのは、いつもレコードで聴いている人の演奏を生で見てみたいという素朴な気持ちが大きかったし、ベイリーがやっていることがなんなのかの興味があったからだ。

結果はというと、前回も書いたとおり、正直圧倒されてしまったのだった。感動したのだ。確かにベイリーの音楽とミルフォードの音楽の間には「齟齬」がはっきり出ていたと思うし、事実、後々聞いた話だけれど、オフ・ステージの2人の間は決してうまくいっていたわけではないらしい。それでもそんなことはどうでも良かった。というか、むしろその上手くいってないことから起こる火花みたなものが、すごいテンションになっていたように思ったのだ。おまけに、なんの期待もしていなかったダンスのすごさにも打たれてしまった。田中泯だけではない。ミルフォードも踊り出していたし、ほとんど動かなかったベイリーも(記憶が確かなら1回だけゆっくり歩き出したと思う)含め、身体をステージに晒すことと、音楽をやることの間にある何かにも、非常に突き動かされたように思う。当時それをどう聴いてどう感想を持ったのかは正確にはもう思い出せないけれど、今記憶をたどるとそんな感じだった。どんなスタイルであれ、すごいもんはすごい…という至極当たり前のことに感動したのかもしれない。そんなわけで予想に反して3人の共演は、まちがいなく20歳そこそこのわたしに大きな痕跡をもこしてくれた出来事だった。

さて、とはいえ、ただ「感動した」では、話は進まない。やはり今から考えると、この共演の大きな意味は、単にすごいパフォーマンスだった…ということではなく、そこにあった「齟齬」にこそあったように思うのだ。このことをよくよく考えていくと、それはやはり、音楽の持つイディオムの問題に尽きるように思えてならない。そのことを探るために、ここでもう一度当時ベイリーが何をやろうとしていたのかを整理してみよう。

ベイリーの著書『インプロヴィゼーション』の中で、彼が繰り返し強調しているのが音楽のイディオムの問題だ。ものすごく短く要約すると、即興というのは、これまでのありとあらゆる音楽の中に普遍的に存在するものだ…ということをまずは検証しつつ、その即興の多くは自分たちの所属する音楽言語を演奏することによって成り立っていて、フリージャズであろうとインド音楽であろうと、その音楽の明確なイディオムを駆使することによって成り立っていることを解き明かしていく。イディオマティック・インプロヴィゼーションにおいては、その即興演奏がイディオムに照らして、自分自身の所属する音楽にとって正統であるかどうかが常に問題になってくる…という指摘は、当時わたしにとっては非常に新鮮な視点だった。そのうえで、彼自身は、そうしたイディオムにたよらない即興演奏の可能性、「フリー・インプロヴィゼーション」を模索していく。わたしは当時、このフリー・インプロヴィゼーションに次の音楽の新しい可能性と希望を、宗教にも近いくらいの熱意を持って見出していたのだった。「音楽から、即興から、イディオムを剥ぎ取る」、なんて魅力的なテーマだろう。当時の私は、そこに民族からも歴史からも自由になれるような錯覚すら見ていたように思う。

理屈や理想はともかく、実際にイディオムのない演奏をするのは、実は、そうそう簡単なことではない。ベイリーが70年代当時ギターでやろうとしていたことをわたしなりに、わかりやすく解説してみよう。ありとあらゆる音楽は、その音楽固有の言語と言えるようなリズムやアクセント、メロディやハーモニー、音色で成り立っている。人間はなぜそれを認識できるのかといえば、リズムに例を取るなら、どこが1拍目かがわかって、ある一定の繰り返し(パターン)をそこから見出すことが出来るからなのだ。1拍目を認識できるからこそ、リズムの表と裏がわかり、そこからパターンを聴き出すことも可能になり、パターンのどこかにアクセントを置いてダンスをしたり、それにあわせてメロディを乗せて歌うことも出来る。ちょっとしたリズムの訛りや、歌のアクセントのつけ方や音色の癖でその音楽がどんなジャンルの音楽かを、別に専門家じゃなくても容易に認識することが出来るようになる。僕らがほんの1〜2小節聴いただけで、レゲエとジャズの違いがはっきりわかるのはそのためだ。これが音楽のイディオムの正体だったりする。さてベイリーが当時やったのは、なにもめちゃくちゃに演奏したり、ノイズと思われるような音を出すことでイディオムを回避するのではなく、あくまでも彼の楽器であるギターを正面から普通に演奏しながら、イディオムを感じさせる音列やリズム音色をものすごい注意深さで回避することだったのだ。これは並大抵の技術や、半端な意志では出来るもんじゃない。同じパターンの音列やリズムを出さない、なにかの音楽を感じさせるようなイディオムの痕跡を出さない…というのは、やってみるとかなりハードルの高い技術で、相当の修練を積まなければ出来るもんじゃない。

ところが一方のミルフォードがやっていることは、これとはほぼ間逆の事だったように思う。彼の演奏する音楽は明らかにアフロ・アメリカン起源の(彼自身の言によれば、それはNYのラテン音楽をルーツとしている)音楽で、60年代に生まれたフリージャズの中でも、とりわけ彼の演奏はブラック・ミュージック起源の音楽を強調していると言ってよいだろう(そのことは彼が、当時、白人の楽器であるスネア・ドラムの使用を避けていたことからもうかがえる。その一方で、彼が共演したアルバート・アイラーの音楽が、実は南北戦争時の白人の進撃ラッパの音楽に強く影響を受けているのも興味深いところだが、本題からずれるので、このことは置いておく)。当時パルスと言われたフリージャズのドラム奏法の中でも、彼のドラムは、今の耳で聴くとかなり明確にインテンポで演奏されており、決してノンリズムだったりするわけではない。わかりやすい4拍子や2拍子で演奏されているわけではないし、テンポにもゆらぎがあるので、ノンテンポのように聞こえるかもしれないが、はっきりとリズムに表と裏があって、明確にジャズやラテン・ビート的なイディオムをその細部に聴き取ることが出来るものだ。ベイリーがありとあらゆるイディオムがら逃げ切ろうとしているのに対して、ミルフォードのほうは、むしろ全ての音の中に、自身が育ってきたアフロ・アメリカンのイディオムを込めようとしているかにすら聞こえてくる。その意味でこの両者がやっていることは、まったく間逆のことだったと思うのだが、しかしこれは、今考えると、どちらも自由を獲得するための方法だったという点では、まったく同じもののようにも思えてくる。片やイディオムを回避することによって音楽の歴史性から自由になろうとし、もう一方は虐げられてきたイディオムをより高度に発展させることにより、歴史の呪縛から解き放たれようとした。同じ土俵だったけれどベクトルの方向が間逆だったにすぎない。

この稿つづく。


Last updated: September 22, 2004