どうもです。え〜と、先日「聴く」の18回を送ったんですが、なんと17回を配信するの忘れてました。
実は「聴く」は plan B 通信という月間のフリーペーパーに2〜3年連載しているもので、フリーペーパーが出た後に、JAMJAMのほうで配信することにしていたのですが、最近は本当に忙しくて、連載もとぎれとぎれになっている上に、配信のほうも忘れてしまいました。え〜と、で先週18回を配信したら17回がまだなんじゃないか…という問い合わせをもらいまして気づいた次第で…、こんなこっちゃいけませんねえ。確か17回は春に書いて、そのまま配信するの忘れていたようです。45にして、とうとうボケが…っていうか、もうだいぶ前からボケボケではあるんですが…(苦笑)。
かくいう今も、昨日火曜の夕方京都から帰ってきて以来、睡眠時間2時間で、ウォーターボーイズの最終回を見るのもあきらめて(泣、…え〜と、JAMJAMの配信なんてしてる場合じゃないんすが、ま、でもこんくらいしないとさすがにいきづまっちゃうので)、自宅の5畳のスタジオにカンヅメになって映画音楽をせっせと作っております。今やっているのは、AVの四天王、佐藤寿保監督、松田龍平、浅野忠信主演の短編映画、江戸川乱歩の『芋虫』。これ、すごい映画ですよ〜。スタジオも取れないくらい低予算なんで、自宅で夜中に小さい音で小さい金属を叩いたりこすったりしたのを、オンマイクで録音(マイクを近づけて録音)、まるでホールで巨大な金属を叩いたような音響にしています。明日までにあげなきゃならないので、これからまたコンビニのドリンク剤でドーピングして、録音にもどります〜。
では、配信し忘れた「聴く」の17回です。
話を進める前に70年代〜80年代に少々寄り道をしたい。ここらあたりから、数年前のいわゆる「音響」に至るまで、わたしの中では何かがつながっていて、このことを抜きには、今の問題に行けない気がするからだ。この先、過去に連載した内容や他で書いたことと重複する部分も多少出てくるかもしれないが、必要な流れということで、我慢して読んでもらいたい。
70年代に高校生だったわたしがもっとも影響を受けたのは、日本のフリージャズだった。山下洋輔トリオに吹っ飛び、わからないながらも阿部薫や高柳昌行はヒーローだった。音楽もだけれど、彼らのいでたちや発言がかっこよく見えたのだ。時代的にはパンクが出てくる直前、それまで聴いてきたロックがつまらなく思えてきて、なにかもっと刺激のあるものをさがしていた頃で、もしもあと1年早くパンクが出てきたら、あるいは情報の遅かった福島ではなく都会に住んでいたら、わたしも真っ先にパンクに行っていたかもしれない(わたしにとってのパンクの衝撃はその少し後、皆に遅れて No New York が出た70年代末だった。余談になるけど、今はやってる青春歌謡みたいな、丁寧にパンク・ファッションをした青年がやってるのはオレにとってはパンクでもなんでもない)。さて、そんな中で知ったのが前回も出てきたデレク・ベイリーだった。もうこの連載では何度となく出てくる名前だ。この1932年生まれのイギリスの長身のギタリストがわたしの人生にもたらした影響ははかり知れない。
高校生だったわたしは最初デレク・ベイリーの音楽がまったくわからなかった。最初に聴いたのは彼の70年録音のソロ・ギターだったが、とりとめのない下手くそなものにしか聴こえなかったというのが正直な感想だ。当時のわたしにとってのギターのイメージというと、やはり圧倒的にロックの影響下にあってジミヘンやらクリムゾンあたりのギターの音色が一番好きで、その流れでジャズのほうでもマイルス・バンドのピート・コージーなんかを良く聴いていた。ジャズのギターの素の音は地味すぎて今ひとつピンとこなかったし、ましてやさらにそれ以上になんの加工もされてない素の音で、なんの盛り上がりもなくぽろぽろ不器用に弾いてるだけにしか聴こえなかったベイリーの良さなんて、当時はまったくわからなくて「?」マークだらけだった。それでもなんだかひっかかり続けたのは、当時良く読んでいたとんがったジャズ雑誌なんかで評論家の間章、清水俊彦、副島輝人、あるいはギターリストの高柳昌行等がこぞってベイリーを絶賛していたからだ。わたしはこの辺の人達にあこがれていた。そんなわけで「オレにわからないだけで、きっと凄いに違いない…」と当時のわたしは思ったのかもしれないし、さらに「ひとつベイリーくらいわかったことにしておかないとカッコつかないし…」なんて思っていたのかもしれない。でも白状すると本当は全然わからなかった。
今聴くと初期のベイリーのやっていることは、それまでの音楽の文脈を注意深く徹底的に回避することに、全精力をそそいでいるように聴こえるし、しかも弦を鳴らしてアンプから音を出す…というエレクトリック・ギターという楽器の本来持つ特性からまったく逃げることなく、正面攻撃とでもいえるくらいの果敢さでそれをやってのけているのだ。これは並大抵の技術や意思では出来るもんじゃない。この点については次回以降につっこむことにする。
彼がやっていることが何なのかが、おぼろげながらもわかり出したのは、80年代初頭、彼の2度目の来日公演を毎日見に行った頃からだ。それはダンスの田中泯がニューヨークからフリージャズ・ドラマーのミルフォード・グレイブス、ロンドンからデレク・ベイリーを招んで渋谷のエピキュラスで行われたMMD計画と題された3日間の公演でのことだった。金がなかったわたしは、「シティロード」という情報誌が3日間の通し券を先着何名かにプレゼントするというので、始発で出版社まで行って、玄関で何時間も待って招待券をもらった記憶がある。で、この公演が、とにかくかっこよくて圧倒されたのだ。「すんげ〜」って言葉が出たかどうかわからないが、今だったらきっとそう言っていたに違いない。20代そこそこだったわたしは感受性全開でこのコンサートを受け止めたのだと思う。
しかし実はこの公演、始まる前にチラシを見たときには、なんか無茶な組み合わせに感じて、うまくいかないんじゃないかと思ったのだ。というのは、当時わからないながらもベイリーが何なのかがすこしづつ見え出していて、で、ベイリーがやっていることは明らかにフリージャズの文脈とは違うというのはわかっていたし、逆にミルフォードのほうは伝説的なフリージャズ・ドラマーだしで、ここに日本のダンサーが入ったからって、なんか無理があるんじゃないの、と思ったのだ。当時わたしは舞踏にもダンスにもまったく興味がなかった。ミルフォードについてはESPレーベルでの演奏と、70年代に日本に来たときの演奏を聴いていて、やはりベイリーの音楽とはどう考えても違うんじゃないかという認識の仕方をわたしはしていたと思う。その少しあとに出てくるポスト・モダンやミクスチャーの音楽なんて発想が出てくる前だったしで、異なるものが共演するということが今ひとつ納得できなかったのかもしれない。一番凄そうなものを一緒にやればもっと凄くなるってのは、なんか安易なんじゃないかと思ったし、純粋なものが濁ってしまう気がしたのだ。ベイリーはベイリーだけで、ミルフォードはミルフォードだけで別々に聴きたいな〜…と正直思っていた。が、実際の公演を見てそんな考えはどこかにふっ飛んでしまった。感動したのだ。
純粋なものが濁ってしまう…このへんの違和感の問題も、実は今回のテーマに関係ある非常に根深い問題なので、ベイリーがやっていたことと含めて次回以降(寄り道しながら)にさらに詳しく書いていきたい。
この稿つづく。