Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第15回

「ミュージシャンはステージで何を聴いているのか その3」

私と共演経験のある20名以上のミュージシャンに「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」という質問をメールでしてみました。どの答えも削ったりするのは不可能な、ミュージシャンがステージ上で感じている真実、あるいはそうあるのではないかと本人が推測する真実です。なのでこの連載では内容に一切手を加えずに数回に分けて、回答をそのままを載せることにします。

今回はその3回目。ノイズの王道を行くインキャパシタンツの美川俊治やメルツバウの秋田昌美、声というより喉の発する音を演奏する吉田アミ、雅楽の古典から現代曲までを演奏する笙の石川高、非常に長い返事をくれたジャズサックス奏者津上研太、さらにそれよりも長い返事をくれた即興演奏家 "キャップ" こと秋山徹次、いずれも個性的な音楽家の意見です。じっくりどうぞ〜。


美川俊治 (インキャパシタンツ)

私は、人前で演奏する際は、極めて稀な例外を除いては、殆どのケース大音量のノイズですので、何よりまず第一に「自分の音」を聴くように努力しています。ノイズをやる人全員がそう感じているかどうかは分かりませんが、私の場合、掛け値なしに、ステージ上では自分の音を聴く努力をしなければ、何をやっているのかさっぱりわからなくなってしまうのです。これは、ただ単に聴くというよりは、自分の頭の中で鳴っている「出ている筈の音」と実際にアンプから出ている音を重ね合わせ、確認する作業でもあるのですが、そのアンプから出ている音自体がよく聴き取れないこともしばしばですので、困ってしまいがちです。ちなみにかなり酔っ払っている時は、演奏中に何を聴いているかとか何も関係なくなってしまいがちですが、そういう時は結構良い内容(演奏というよりはライヴがということかもしれませんが)になっていることが多いようです。

その次に来るのが、他のメンバーの出す音です。この順序は私にとっては絶対です。それ故に、アンサンブルとしては崩壊してしまうことも多々あるのですが、それは仕方の無いことだと考えています。何か矛盾しているようにとられるかもしれませんが、自分の音が良く聴こえる時は、他のメンバーの音も良く聴こえることが多く、結果として、「自分としては良いと思える演奏」に繋がるようです。とは言え、そう思える演奏は、なかなか実現することは難しく、「今日もすかたんやった」と思うことも多いのですが、反省はしません。遠い昔にそう決めましたから。


秋田昌美(メルツバウ)

ステージでは自分の音がちゃんと出ているかどうか、機材(自分の機材と会場の機材)がちゃんと作動しているか、確認する為に音を聴いているといえます。独りでやる時は外(そと)音の感触を体感する為にモニター・スピーカーは使用しません。これらが整ってはじめて演奏に没頭できます。良い感じで音が出てれば演奏は楽しく自由になれるし、そうでないと、何とかして打開しようと苦戦するのでつまらなく演奏は自由になれません。


吉田アミ

自分の耳に聴いています。それは共演者の出す音だけでもないし、自分の出す音だけでもありません。研ぎ澄まされた耳から聴こえるすべての音を拾います。私にとって、マイクで拾った音すべてが私の音なので演奏中は自分と外の音の境界は曖昧です。ただし、その状態に「酔う」ということはありません。呼吸や声を使った演奏というのは、簡単に自分に酔うことができることがのですが私はそれが好きではないので、演奏中も自分の音を客観的に、冷静に捉えています。

実際、自分自身の音に対しても身体からきこえる音よりもスピーカーを通して聴こえてくる音を優先して聴いていると思います。演奏者でありながら耳の良い観客でも在りたいと思うのです。

でも、声も出しているのも自分なので、こうしたいと思っても、体がついて来ず、酸欠になったり、どうしても思うように音を出せないことがあって、そういう時、自分の体が厭わしく思います。そういうふうに葛藤しながらこれからも音を出していくんだろうなーと思います。


石川高

「聴く」ことについて:
演奏全体で何が起きているかをみまもる冷静さを維持しながら、響きを受容している感じです。鼓膜のみならず、楽器が接している頭蓋の振動や、床を伝わってくる振動も感覚しています。楽器を押さえる指にも響いてきます。同時に音を発しているせいか、「聴いている」という自己把握はほとんどなく、そのため、思い出そうとするとあまりよく覚えていないのだと思います。

「聴いている」内容について:
笙は一音の中にも倍音の層があり、和音になるとさらに相互の音の干渉で様々な倍音がきわだってきて、いくつもの周期の波が満ちあふれます。楽器で出せる音よりもずっと高い響きや、1オクターブ低い響きも聴こえてきます。また、持続音を演奏していることがおおいので、楽器それぞれのもとの音と同時に、笙の音と他の楽器の音が混ざりあっている状態をも聴くことが特徴的だと思います。笙の音によって他の楽器が変調された響きが生じ、それらはとても立体的に、空間を飛びかうように感じられます。こうした状況が意識にとりわけ明確になるのは、雅楽の古典を演奏している時と、cathodeの時でした。古典の時は篳篥、龍笛など強い音の楽器が多いためで、cathodeではsine waveと共に演奏しているからです。古典の時は、もちろん各楽器の音を旋律として聴きとって理解しています。この段階で、より内的な想像の領域が関わってきます。雅楽を稽古するときに歌う「唱歌(しょうが)」という、雅楽の旋律を単純にしたものを意識のなかで歌っており、さらに、それぞれの楽器がその瞬間に理想的にはどのような演奏をしているべきかも想像しています。それから、会場の空間の残響を聴いています。静かな演奏の時には、客席の様々な音や、空調なども聴いています。一応このようなところです。


津上研太

この質問を受けて、私なりにそのことについて思いをめぐらしました。音楽は「きく」ということから始まるのだと思います。そして発声発音すると音の集まりは音楽になっていくんですが、その結果、会場全体にどんなことが起こっているかということについて私の考えを以下に書きます。

私は演奏中に「聞く」と「聴く」という二通りの行為を同時にしています。

1.「聞く」
演奏中は共演者同士で演奏状態を共有しています。そして演奏の今後を左右する出来事が次から次へと起きています。演奏中はその演奏状態の全体が(全体ということは自分の発する音も含めて)フェアーに(特別なスポットを当てずに)聞こえています。つまり、「聞く」ではなく「聞こえている」または「聞こえてくる」という言い方のほうが近いかもしれません。「聞こえてくる」のはめくるめく沸き起こり刻々と変化する音に表現された出来事です。

2.「聴く」
ところがその音音の中で自身のコントロールが利く音は自分の音です。自分の音は自分で決定しています。でも、その直後にどんな音を出すかということについていちいち考えたりはしていません。おしゃべりをしている時に、例えば「あのさぁ」と言葉を発する時に「あ」と発音して「の」と発音して…という風にいちいち考えたりしないようにです。では何を根拠に音を発するか? という事ですが、私の場合「内なる音」に耳を傾けます。この行為こそ「聴く」ということです。内なる音に耳を澄まし、それが音楽の衝動となって音を発するのです。内なる音は周りから聞こえている音に強く影響され、かつ流動的で、演奏直後には周りの音に影響していきます。聞こえてくる音と内なる音は互いに密接に繋がっているのです。

3.「音色」
音色も自身でコントロールできる要素の一つです。音色は「聞く」、「聴く」というより行為より「感じる」といった方が近いです。極論かもしれませんが、突き詰めると音楽は音色の集合体です。その集合体のなかで自分の音色が何の効果を出しているか、又はどのような影響を周りに与えているか、といったことについて感じています。

4.「オーディエンス」
さて、そうして演奏者は内なる音に耳を傾けながら 聞こえてくる音とともにステージ上に存在します。ただしそれはステージ上に限った話で本来はオーディエンスがいて、彼らから発せられるエネルギーもとても重要なファクターになり得ます。そのエネルギーは音ではないので直接は聞くという行為をしていませんが、内なる音に多大な影響を及ぼします。そういう事が顕著に現れるのがデュオやソロなど共演者が一人とか0人の場合です。

5.「体験」
「内なる音」と「聞こえてくる」音を「聴き」、「音色」を「感じ」、発声すればそれは演奏状態となり、オーディエンスを巻き込んでエネルギーみたいな物のやりとりが起こると音色の集合体は音楽に昇華します。ここで言うエネルギーとは感情の動きと言い換えることができるでしょうか。音の集合体を耳にした人に、なにかしらの感情が起こるとそれが波のようになって「場」が動き出します。演奏者が発声して、オーディエンスに届き、感情の動きが起こり、演奏者に戻ってきて…というサイクルがぐるぐると繰り返され音楽の密度がより濃くなっていきます。私は音楽を演奏したり鑑賞したりする行為は一つの「体験」と考えています。

演奏中になにをききますか? という問いには答えとなっていないのかもしれませんが、私の場合、演奏中は自らが音楽に参加し、同時に体験する中でこれらの行為を同時に行ってたり感じたりしています。


秋山徹次

この質問は単純な様でいてその実非常に奥が深い命題を含んでいて、また私自身にとっても過去の時期によって捉え方 / 考え方が変わり、いろいろな変遷を経て現在に至りつつもまだまだこれからも変わっていく可能性のあることなのです。ここでは即興演奏に限っての私の場合について述べたいと思います。

かつて在籍していた即興演奏主体のバンドでこんな実験をしたことがあります。それは、メンバーの一人が秋葉原の街頭で録音してきた街の雑踏音の入ったカセットテープを、練習スタジオのPA装置から自分達の演奏と同程度の音量で流しつつ、それとともにフリーフォームな演奏を行うというものでした。こうすることによって、自分達がリアルタイムで出している音に録音された雑踏の音が被さり、自分達の演奏に含まれる人間的なエゴの部分を打ち消そうとしたのでした。そのころ(多分1987年前後)の私にとってもっとも重要だった即興演奏上のテーマは、いかにして自分の演奏から主観的な要素を抜き取り、あたかも楽器もしくは音楽それ自体が自然に演奏しているかのような「エゴ」のないインプロヴィゼイションをするかといったものでした。当時は今よりも、いわゆる轟音で垂れ流し的即興演奏をする人達が多かったように思いますが、私の関心はそういう方向でカタルシスを得るよりも、違う方法で自分で納得いくものを創り上げることでした。いかに自然になれるか。自然に音を出していくことが出来るか。観念的であり、かつ結局のところ非常に主観的でもあります。何故なら「じゃあ、客観的な意味で自然な演奏って何?」という問いにぶつかるからです。そこで私の得た結論は、演奏者が自分の肉体と楽器を使って演奏しているという逃れられない事実がある以上、「演奏」という人為的行為を自分の身体という「自動演奏装置」を通して行われる「現象」というレベルにまで引き寄せなければならないといったことでした。つまり自分の演奏行為を雨や風や雷のような「自然現象」、あるいは顕微鏡で覗いたアメーバが動いている程度の行為にしたかったのです。まあともかくも、自分達の演奏におけるエゴイスティックな要素を外部から強制的に打ち消すような装置を必要としたため、そんな試みをしたのでした。それには「街の雑踏」の音はそれ自体にはエゴが無いと考えたので、この試みには適当だと思ったのです。今思えば、どんなフィールドレコーディングといえども、いわば「自然のエゴ」といったものがあるようにも思えますので、このときの「街の雑踏」は実はある種のエゴを持った音だったのです。つまり、エゴをもってエゴを制すといった試みだったのです。またあるときは自分達自身の演奏の入ったテープを流しつつそれとともに演奏したりもしました。この場合、自分達を打ち消してくれるのは過去の自分達です。このときは実際自分の耳に聞えている音が、たった今自分が出している音なのか、それともテープから再生されているかつて自分達が演奏した音なのか、ところどころ本人達でもわからなくなる時があり、非常に不思議な感覚に見舞われました。また、幻聴なのか何なのかよくわからないのですが、実際に聞こえているテープの音とは別に次に出すべき音の連なりがどこかしら聞こえてきて、そのとおりに音を追うように出してみると不思議な事にしっくりとはまった感じになり、そしてまた次に出すべき何かしらフレーズのようなものがまた聞こえてくるといった事が繰り返されるといったことがありました。これらの実験で得たのは、つまりどんな適当な音を出してもその音がまさにその状況にしっくりくる音になってしまうといった感覚です。

こんな事を繰り返しているうちにわかってきた事といえば、あらゆる即興演奏に間違いはないのだということでした。また感覚的にいえば、全ての即興音楽はすでにそれが発音される直前に、それこそ「勝手に」出来上がっていて、我々演奏家のすることと言えば最後に少しだけその背中を押してあげるといった事に過ぎないのです。ですから、わざわざみずから「自然現象」になろうとせずとももうほとんどそうなっているのです。また敢えて他人に合わせようとしなくても合ってしまうのです。しかし、相手の音を聴いて合わせようと思った瞬間 ズレが生じます。それゆえ自分達が出す音といえども、自分達でもって無理矢理わがままな方向に持って行こうとすれば絶対にいい演奏にはならないのだなといった事にも気が付いたのでした。つまり他人の演奏を聴こうとしないで「聞こえてくる」ものを自然に耳で受け入れるくらいでちょうどいいのです。そもそもどんな音を出しても原理的に間違えた音は出ないのですが、間違ってはいないが「悪い演奏」というのはあるということです。いや、ここでは「悪い演奏」という表現は的確ではなく「不自然な演奏」としたほうがいいでしょう。この後数々の実験を経て思ったのは、敢えて「不自然さ」を要素として捉え、それを適宜に挟む事により、演奏によりいっそうの奥行きが出せる場合もあるといった事でした。つまり、「人為的行為」と「自然現象」をバランス良く混ぜ合わせればいいのであって、かならずしも常に自分のエゴを消したような演奏をしなくてもいいのだと思った訳です。

私は、今出ている音はすでに過去のものとして、つまり記憶の外在化されたものとして捉えています。この場合の記憶とは、いわゆる脳が司る機能としてのものを指すと同時に、またそれ以上に身体の記憶をも意味します。というのは、私は演奏行為を身体の機能として捉えているからです。具体的な例をあげると、あるタイミングで音と音の間に一定の無音部分を挟みたいときなど、脳で「いち、に…」と数を唱えたりするのではなく、身体を(可視的にはそう見えないにせよ)揺することによってタイミングを計ります。私のメインの楽器であるギターは非常に身体性の強い楽器であり、それゆえその身体性を拒否することで新たな演奏上のパースペクティヴを開いたりするアプローチもまた数々行われていますが、私としては敢えてその身体性にこだわって、むしろ自分の身体と楽器との間に生じる微妙なズレを利用して、時間軸的に演奏を進めることから逃れようとしています。このズレの中にもう一人の自分を挟み込み、演奏者としての第一義的自分と間の距離を利用して、かつてテープを使って試みた外部からの打ち消しの役割をさせているのです。つまり、身体感覚のズレや演奏上のエゴを打ち消す装置として利用する事に思い至ったのです。これによってそれこそ自分の思うがままに人為的になったり、自然になったり出来るようになりました。自分が考えていたような演奏が考えずに出来るようになったのです。一件落着のように思われるでしょう。ところが人とは欲深いもので、ある程度時間が経つと自分が自分の思ったような演奏をしてしまうことに耐えられなくなってきたのです。うまくは言えませんが今度は「自然」「不自然」のバランスごっこからも逃れたいと思った訳です。こうなると、好きで始めた音楽なのに、それがいつのまにか音楽を演り続けなければいけないといった何か呪いのようなものかけられてしまった感じです。

現在、私にとって一番の関心事は、音楽を演奏するにあたっていかに時間の外側へ出るかということです。それには頭を使っていては、つまり「聴いて」いては全ての演奏行為はもはや「遅い」のです。そのために、身体性が前面に出てくるというのは、文字通り頭で考えるより先に身体が動いてしまっていたという感覚を呼ぶためなのです。では、時間の外へ出るとはどういうことを意味するのかと言えば、それは「それにによって、そこから時間が発生するような演奏すること」とでも言えばいいでしょうか。やや抽象的、観念的に聞こえると思われるでしょうが、こういう事は実際に起こるものなのです。演奏する行為によってそこから全ての時間が始まる、私にとってこの感覚こそ即興演奏がもたらす最大の祝祭に他なりません。故に、私にとって全ての演奏は多かれ少なかれサイケデリックな装いを帯びてきます。したがって即興演奏をする喜びとは、物理的にどんな音波を出したかというよりは、そのときの心のありかた、ある種の感覚に自らを置くことが出来るというのがうれしいのです。

観念の段階にある音ほど純度が高く、それらが実際に発音され他人に聴かれてしまった後は、すでに複数の記憶に色付けられています。こういった意味合いでは、みずからの演奏を「聴く」ということは、観念の中、或いは可能的未来に潜在的に存在したであろう「未だ演奏されていない音・音楽」を、次から次へと消去していくことを意味します。聴くことで可能的未来を殺すのです。聴取とは殺害行為に他なりません。ということはとりもなおさず、「聴かない」ことを選択すれば全ての音とその未来を生かすことになるように思えます。音 / 音楽を聴かない様に聴く、つまりは「曖昧に聴く」という事です。ところが、すでに耳に届いてしまっている音、つまりもうすでに「聴いてしまった音」に対して我々は何が出来るでしょうか?言い替えれば、もうすでに聴いてしまった音を「聴かなかった」状態に戻すことがはたして可能でしょうか?殺してしまった相手を生き返らせることなど出来ないと思われるでしょうが、実はこれが出来るのです。それはつまり、音をいちいち「解釈」しないことです。「解釈」は「介錯」であり、つまりは相手の首を落して息の根を止めることです。ただし、これはもともと介抱という意味もあり、かならずしも悪い意味だけではありませんし、人は演奏を聴いて解釈しようとすることで、自分なりに自分を介抱 / 解放しようしていることもあるので、それはそれでいいでしょう。しかしすでに聴いてしまって記憶の中にある音でも、それに対して何らかの解釈をしなければ、即興音楽は本来あるべき純粋な抽象性の中に留まり、それにより却って生命を取り戻すのです。私に言わせれば、この抽象性の中にこそ解釈を超えるものが存在していて、私にはそれのほうが貴重で大切だと思われるのです。ただしここまで言うとほとん神学的になってきますが。

さてここで最初の質問に戻ります。「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」。このような変遷を経て今この質問に立ち向かうとすれば、私が現在答えられることはこんな感じです。「それらがどんなに些細な音であろうと、またそれが音として立ち現われてくる直前の気配だけだとしても、聞こえてくるもの全てを排除せず受け入れ、曖昧に聴いています。その行為の中に常に未来の音楽が眠っていると思うからです。でもそれを解釈したり、またそれらに反応したりしません。何故ならそうせずとも全てこの世に現われてくる音というのは必然性を伴っていて、我々もまた、たとえそれが呪いであろうとも、必然的に演奏しているのですから」。


Last updated: March 22, 2004