私と共演経験のある20名以上のミュージシャンに「あなたは、ステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」という質問をメールでしてみました。数行の答えが返ってくるだろう…くらいに考えていたのですが、かなり長いものから短いものまで、いずれも実感と経験にもとづいた非常に興味深い答えが返ってきました。どの答えも削ったりするのは不可能な、ミュージシャンがステージ上で感じている真実、あるいはそうあるのではないかと本人が推測する真実です。なのでこの連載では内容に一切手を加えずに3〜4回に分けて、基本的にはなんのコメントも付けずに回答をそのままを載せることにします。
1回目はジャズやポップス等のフィールドで、バンド等のアンサンブル形態で活動することの多い菊地成孔、植村昌弘と、いわゆる弱音系とか音響系などと形容されることの多い現場で、ソロや小編成でアブストラクトな演奏をする杉本拓と中村としまる、一見非常に異なる活動をしている彼等の、(同じフィールドの2人でさえ、まったく異なる音楽を演奏しています)しかし、どこか共通したところもある回答です。また楽器を肉体で演奏する人達(菊地、植村、杉本)とエレクトロ二クスの中村との考え方があざやかに異なる点も非常におもしろいところです。次回は楽器奏者やエレクトロ二クス奏者に加え、ヴォーカリストの意見も掲載する予定です。まずはその回答を読んでみてください。
菊地成孔(サックス、オルガン奏者、DCPRG, スパンクハッピー)の答え
基本的にはモニター・スピーカーから出ている音と、生楽器に関してはマイクに乗っていない成分をミックスして聴ている。というのが厳密かつ妥当な回答になりますが、それ以外の総ての音もミックスして聴いているはずで、しかしながらそれは僕個人に限って言えば、あまり意識されません。所謂「高級ジャズクラブ」等の、オーディエンスの食器ノイズがそういった物の中では最大の物でしょうが、あれは不思議なことに、演奏と一番解け合ってしまいますし。
しかし、演奏音、非演奏音に次ぐ、第三の音響のエリアもありまして、それは「妄想」という言葉からの転用で「妄音」というか、要するに脳内のイマジネーションの音です。「演奏がこうなれば良い」という、次の瞬間への近視的な欲望というか。
これの音量は、実音である演奏音、非演奏音とはデシベルで比較できないわけですが、しかし、演奏音、非演奏音という実音も、一回聴覚を経由して脳内でイマジナティヴに加工されますから、脳内がスリー・ディメンジョンのレイヤーに成っている感じで、非演奏音をキャンバスに、演奏音と妄音が脳内の同じステージでせめぎ合うような状態(つまり、妄音は常に一瞬演奏音に先駆けますが、演奏音は妄音を裏切りますし、妄音は演奏音を受けてまた発達しますから、絶対にひとつに成ることはありません。これは言語学で言うところのサンダグムの問題に近似しているわけで、ということは僕が音楽を、言語として聴いている。という事の傍証になると思いますが)が、クールとかグルーヴィーとかスインギーとかいう言葉に置き換えられる「良い状態」で、妄音が(強く)発生せず、演奏音だけがメインに聴こえるような状態は「悪い状態」です。僕にとって。
何を聴いているか? という質問ですが「何を見ているか?」と言うことの方が、僕には大きくて、プライオリティーで言えば「良い状態」だとして、妄音。演奏音。視覚情報(見ている物)非演奏音。となります。非演奏音が、視覚情報に勝ったことは未だかつて一度もありません。
杉本拓(ギタリスト、作曲家)の答え
ステージ上でというのは面白いですね! というのも、実際にはステージと呼べる様な代物ではめったに演奏する機会がないからなんですが。本当にステージがあるのと、そうでないところで演奏するのでは、何かが違うもんです。
演奏する側と観客とでは、同じ音楽に関わっていながら、違う物を聞いているんではないかというのが私の考えす。正確には、音はたぶん同じかもしれないが、それに対する関わり方が違うんではないかと思います。演奏家の方だけでも、音楽の種類や、楽器の違い、独奏か合奏かによっても違うと思いますが、話が長くなりそうなので、今回はソロの演奏の話をします。面白いサンプルになりそうなので。
2ヶ月ぐらい前に、私はシドニーでソロの演奏をしました。楽曲で、即興の要素は極めて低い曲です。たったひとつの音しか使用しません。このひとつの音(とても短い)がランダムに鳴るわけですが、沈黙もあります。これが長いときで4〜5分、逆に音が密集しているヘビー・メタル・パートもあります。今、譜面を見て音を数えたら、だいたい100個。これらの音が73分間に散らばっているとイメージしてください。変化のない極めて退屈な曲です。
前段階として、このひとつの音を磨き上げなくてはなりません。これには練習が必要です。ステージ上では、この磨き上げた音の再生にまず意識が向かうわけです。つまり、任務を遂行しなくてはいけない。ギターを弾く上では肉体のコントロールが重要ですから、そのことも意識しなければならない。
具体的に書きましょう。まずコンサートが始まりました。そして最初の音までの2分間、体をどう使うか、又、音そのものについてイメージします。この「音をイメージする」ことが、実際には音が鳴っていないわけですが、頭の中で鳴っている音なわけです。そしてこれを聴いている。このイメージ化された音が実際に出された音と照らし合わされて、次の音に向けての微調整へ導きます。何しろ、全部同じ音な訳ですから、今のはちょっと強すぎたとか、余韻が長すぎたとかいった具合に、イメージ化された音が参照の役目を果たしながら、実際の音も次々にイメージ化されていくわけです。
そして長い沈黙が来ます。それが、4分とか5分とかあると、さすがに何も考えてない時もありますが、それでもストップウォッチを時たま見たり、譜面を見て次に弾かなければならない時間を確認しなければなりません。意識のある部分はパフォーマンスの時間的な線にそっていると言えます。その間は何を聴いているかというと、その他の音、意図されていない音です。正確には聞こえてくると言った方がいいでしょうか。これは、長い沈黙の時に限らず、常に聞こえているといっていいでしょう。ただ、沈黙の時の方が他に音がないので、相対的に空間としての音に光が当たるのではないでしょうか。その他、イメージの音、記憶された音、幻聴のような音も登場してきます。
ところで、観客の方も、私が経験しているようなプロセスを幾つかは共有していて、それを通して音を聞いている可能性が十分にあります。多分、そうでしょう。そうすると私と観客は同じ様に音を聴いて、同じ様な体験をしているかもしれません。
しかし、お客さんの中には、概念として音楽をとらえてる人も多いんではないでしょうか? こんなのは音楽じゃないと思う人や、大体10分も過ぎれば、私の曲がこれから先どうなるかが見当がついて、「ああ分かりました」と言って帰っていく人達です。又、何も起こらないことを拷問と感じる人もいます。これらの人達は私の音楽が嫌いです。つまり、何も聴いてない、ということになるかもしれません。
この日のコンサートにはステージ(らしきもの)がありました。私から最前列お客さんまでは3メートルぐらいです。普段は、3メートル以内にすべてが収まっていることが多いので、今回の状況はいかにもコンサートです。この観客との距離が、私が音に局所的、ディテール的に向かうのに対して、観客側では全体としての音をとらえると言う状況を強調します。これは違いです。それはそれとして、うまくいくはずでした。以下のことがなければ。
私がストップウォッチのボタンを押してから1〜2分後に雨が降ってきました。しかも、この雨が半端なやつじゃない。まるで台風で、建物に打ち付けるおおつぶの雨がもの凄いノイズを出していました。私が何をしようが、ほとんどうち消されてしまいます。しかし、そこでアンプのヴォリュームを上げるようでは私の沽券に関わります。もっともそうしたところで、あまり変わりはなかったでしょうが。そのぐらい雨の音がうるさかった。アンプは私の近くに置いてあったので、自分で自分の音は聞こえましたが、お客さんにはあまり聞こえなかったんじゃないでしょうか? 何をやっていたかは分かったと思います。雨はたまに静かになりましたし、私のギターを弾く動作は毎回ほとんど同じだ
ったからです。
これは異常な状況です。コンサートを聴きに来た人達はただ雨の音を聴いてるわけです。しかし、これはどうする事もできない。それは、単にそういう状況になってしまったからです。私に打つ手はありません。しかも雨さん達は40〜50分、辛抱強く降っていました。
雨がやむと、今度は別のノイズがやって来ました。お客さん達が席を立つ音です。この時点で3〜4割は消えていましたが、それまでは雨の音が、退場の際に生じるノイズをマスキングしていました。私はこっちの音の方がいやでした。帰ること自体はどうということはありませんが、彼らの多くは長い間辛抱していたので、「注意深く席を立う」という慎み深さを持っていませんでした。そして、この状況は、曲が終わるまでずっと続きました。最後までいた人達はコンサート開始前の3〜4割ぐらいだったと思います。
この最後までいた人達にとって、もし彼らが音楽を聴こうとしていたのなら、私の出した音とはなんだったのでしょうか? 私には自分の音(音楽)が聞こえました。しか客席側では、雨の音や、人々が席を立つ音の方がメインのサウンドだったんではないかと思います。私のギターはそれに対するバックグラウンド・ミュージックの様です。
私がステージで聴いていたもの。それはやはりギターの音です。その他の音は背景です。ところが、それを裏返してみると別の可能性が広がっているではありませんか。
中村としまる (ノーインップット・ミキシング・ボード奏者)
「僕の長すぎないけれども短くはない演奏経歴の中では、変遷があります。ある時期には自分の音を中心に聴いたり、別のある時期には自分の演奏がしやすいように合奏しているほかの楽器の音を聴いたりしました。出ている音全部を総体として聴くようにした時期もありましたし、さらに演奏を取り巻く環境音に焦点を当てたり、それと楽音の相対や総体を聴くことを喜んだ時期もありました。今の時点では、それらは少しずつ間違っていて、少しずつ正しかったのではないかなと考えています。今は…、何にも意識的には焦点を当てないようにしたいと思っています。ヒトの感覚はとにかく周囲の状況や思い込みに惑わされて錯覚を招きやすいものです。意識的になればなるほど、かえってその錯覚にとらわれてしまうような気がするんです。だから、聴くことは聴くんですが、むしろ聴覚だけに頼るのではなくて、すべての感覚器を等価に使って、逆に言えば何かひとつの感覚だけを研ぎ澄ませることなく、ステージ上(あるいはしばしばステージ前や下)に、自然に自分らしく居られることができるならばよいなあ、と考えています。まあ音楽家ですから、どうしても耳がとがってしまうんですけどね。なかなかうまく行きません。」
植村昌弘(ドラマー)
状況によってかなり違いますが、基本的な意識としては、聞こえる音を漠然としたミックスで全てを聞いて(聴くようにして)います。
ただ、音楽のスタイルによってはその中から、特に着目すべき音だけを聴いて、他の音をシャットアウトするような事もあります。とは言え、耳には入っている訳で、何かあるとすぐに気が付いたりするので、全く聞いていないと言うと嘘になりますね。
また、本来注意して意識していなければならない所を、他の音に気を取られて聞き逃してしまうという事も、僕の場合、多々あります。これは、まぁ、音楽家の基本技術レベルがその程度という事ですが。
あと、極端なコンセプトの音楽の場合、同じステージ上の他の人の音はおろか、自分の音さえ、聞かないようにするような事もあります。単に音を出す作業を求められる場合に、なるべく時分の作業に集中しようとするのですが、それでも、実際には「聴こえるなぁ…」と思っている自分も同時に居ます。
こういう質問をされると、改めて、思った程そういう作業をコントロール出来ていない自分を自覚します。未熟者ですね。スミマセン。
ちなみに、昔、邦楽の勉強をしていた頃、間口の広い舞台の両端に演奏者が置かれて演奏する事が多く、タイムラグがちょっとあるので、「音を聞いて演奏していたらタイミングが遅い!」とよく怒られました。で、息を合わせる事の重要性や、見る事によってタイミングを測る(光速は音速より相当速いですから)叩き込まれるのですが、僕の場合そういう事によって、相手を聴かないアンサンブル、というモノに恐怖感が無くなったものの、視覚に頼り過ぎるという弊害も残してくれました。
という訳で、僕の場合、聴いて(見て)いたり、聴いて(見て)いなかったりします。しかも、それがどうなっているかという自覚すら怪しいです。いずれにせよ、未熟者です。スミマセン。