ども。2週間にわたるカナダ、アメリカツアーを無事終えて、日本にもどる機内でこれを打ってます。うしろの席にはトニックで一緒になったExias-Jの神田さんも偶然座っていて、ちょっとびっくりです。出発前日はニュージャージーにあるアーストワイル・レコードに泊まって、昨年東京でやったアーストワイル主催のアンプリファイ・フェス
のボックス・セットに入っているDVDを見せてもらったり、60年代のめずらしい音源をいろいろ聴かせてもらったりと楽しいひとときでした。ボックス・セットのDVDは貴重なドキュメントとして、後々良い資料になるんじゃないかな。よくよく考えてみたら、僕等周辺の音楽の映像資料は本当に少ないもんなあ〜。
え〜フリーペーパーのplan B通信にも連載している「聴く」、今回12回目は、また映画をとりあげます。plan B通信での連載よりもJAMJAM版のほうは、今回多少長めになっております。ではでは、どうぞ〜
前回までは、マルタン・テトロの97年の演奏をもとに音を水平ではなく垂直に認識すること、そこから即興とイディオムの問題にまで言及した。今回は再び話を映画の音にもどそう。
あくまでも個人的な見解なのだが映画にも水平に認識する音と、垂直に認識される音があるような気がしている。水平というのは時間軸に沿った音の変化、ある音と次の音の連結によって認識されるような音のことで、映画の場合で言えば、その代表的な音が台詞、次いで劇伴と呼ばれる映画音楽がこれにあたる。一方、垂直のほうはというと、時間軸とともに変化する音と音の関連ではなく、瞬間的に響く音で世界を認識するような音、これは効果音の中でも特に「映画1」でふれた背景音のような、実際にはあまり表面だって認識されることのない周辺聴取の領域になるような音がこれにあたる。
再び相米慎二監督の遺作となった『風花』の冒頭のシーンを例にとろう。冒頭、満開の桜の木の下で酔いつぶれている浅野忠信と小泉今日子のシーンにはかすかな小川の流れる音が聞こえている。実際の現場にも小川はあったが、映画の中の小川の音は、台詞とともにマイクで録音したそのままの音ではなく、後から響き方や台詞や音楽とのかねあいで巧妙に音色やバランスを考慮し再構築しなおした音だ。しかも、「映画1」でもふれたとおり、カラスの声が大量に入っていた関係で、そのまま使えなかった…という経緯もあったりする。映画を見る人は、通常、いちいちこの音を「小川が流れている音がしている…」という風には言葉では認識しないし、小川の音にも集中しない。認識するほうの耳は、浅野忠信と小泉今日子の会話のほうに集中するからだ。でもだからといって
小川の音をなかったことにしているわけではない。誰にだって小川の音は聞こえている。でもいちいち認識はしてないだけだ。もし突然ぷつりと小川の音が止まってしまえば、誰でもその異変に気付くのが何よりの証拠だ。要するに、風景を見るように音を背景に聞いて、そこがどういう状況かを意識的ではなく認識している…という感じだろうか。人々の記憶には無意識のうちに小川のせせらぎの音や桜の散る風景がインプットされる。
このことを使って映画の場合はちょっとしたテクニックを使う。たとえば、喫茶店で2人の会話のシーンがあったとする。初めは喫茶店のざわつきや店のBGMを入れておく。でカメラが2人により、観客が2人の会話に集中しだす時にゆっくりとBGMやざわつきをフェイドアウトし、会話の声だけをクローズアップしていく。時には背景音が消えるのと同時になんらかの劇伴音楽を静かにフェイドインしたりもする。今ツアー中なので、ビデオをチェック出来ないから確証はないのだけれど、おそらく『風花』の冒頭でもカメラが主人公達に近づいていき、彼等の会話が始まるとともに、小川の音が大きくなるか、小さくなるかしているはずだ。こうすることで、観客は2人の会話に集中しだす。
同じ場所にいるのに小川の音が変わったり、喫茶店のざわつきが消えたりなんてことは現実世界ではありえない。でも、音がこんな状態になることは絶対にないと言えるのかといえば、そうでもないのだ。無論、ちょっとした頭の角度でも音は劇的に変わったりするのだけれど(そんな経験はないという人はSachiko Mのサイン波を使ったライブの現場に行けばすぐにわかる)、でもそういった実際の聴感上の音の変化だけではなく、問題は脳みそのほうが、音をどう認識しているかなのだ。例えば、人間の耳にはある音
に集中すればするほど他の音が聞こえにくくなる性質があって、これは脳のほうで聴きたい音にフォーカスを当てるからなのだが、映画では丁寧に人間が脳内でやっていることを実際にやってあげているのだ。目の前にいる人の話に集中すればするほど、人間は他の背景音(それがたとえ大きな音だとしても)に意識が行かなくなるように出来ていて(注1)、その性質を利用して、背景音をゆっくり消してあげることで、観客も2人の
会話に集中していくことになる。このフェイドアウト可能なざわつきや小川の音のような周辺的な音こそが、人間が垂直に認識している音の正体なのではないかとわたしは考えている。
時間軸の中で音と音の関連を見ながら意味を認識するのではなく、瞬間瞬間の自分の立ち位置や、あたりの状況を漠然と把握するだけの聴取…とでも言ったらいいのだろうか。少なくとも僕等の耳には、言葉や音楽のように前後の関係で「意味」を認識する聴取のソフトとは別に、認識というようなものではなく瞬間瞬間の響きを漠然と感じることで自分の置かれている状況を無意識に把握するような、周辺聴取とでも言えそうなソフトの2種類があって、これがその時その時に応じて役割分担したり互いの領域を行き来しながら駆動しているのではないだろうか。(注2)
『風花』ではこの小川の音が実は何度も出てくる。そんなことを気にして見る人はもちろんいないのだが、この冒頭の小川の音は映画を見ている人にある漠然としたイメージを残していて、気付かぬうちに小川の音が引き金になって、ある種の空気みたいなものを観客に、ややサブリミナル的にフラッシュバックさせる効果がこういう音にはあるのだ。これはなにも『風花』だけがやっていることではなく、どんな映画でも、大抵はそういう効果音技師のテーマみたいなものがひそんでいたりするものだ。
『風花』の冒頭には小川の音とともに、もうひとつ私の作った笙とギター、バンドリンによるテーマ曲も静かに流れる。これはさっきの話で言えば、水平に認識される音の領域になる。が、この映画では、ちょっとそれとは異なる試みをしてみた。通常劇伴はあるシーンに対して、ある感情的なあるいは感覚的な方向性(悲しいとか、嬉しいとか、あるいは危険だとか、時に速いとか遅いとか、重いとか軽いとか)を与えることになる。『風花』の冒頭は、まだこの映画がなんなのかを感情のレベルでは出したくなかったの
で、音楽は悲しいとか幸せとかいったものではなく、桜の散る風景と小川の音があることを前提に、風景や小川の音となんらかのハーモニーをもたらしつつ、ある空気というか、世界の色合いといったやや情緒的な方向(幽玄とか、あるいは静寂といったような)方向を感じさせるように静かに作られている。だから意味を認識するような水平の音の連結よりも、垂直に存在する小川の音や、桜の風景といったものとのアンサンブルを念頭に作った。なるべく周辺聴取的な音楽を作ろうと思ったのだ。
人間は垂直、水平に関わらず2つ以上の異なるものがあると、かならずその両者の関係から何らかの意味を見つけ出すように出来ている。映像と音楽の関係もそうだ。この映画を見ている人は、無意識のうちに桜の風景と音楽の間にからなんらかの意味というか雰囲気のようなものを見出そうとする。小川のある風景に対して小川の音は異物にはならないが、そもそも映像に音楽というのは異物だからこそ、今度は脳内の「2つの異なるもの認識ソフト」が「周辺聴取ソフト」と連動して動き出す。動き出すと、今度はただの桜の木になんらかの意味やら、雰囲気みたいなものが感じられてくる。映画が無声時代から音楽を必要としたのは、なによりも人間の脳にある「2つの異なるもの認識ソフト」に対して効果的だからだ。キートンが走っているシーンに軽快なテンポの音楽をつけるのと、葬送曲をつけるのとでは、シーンの意味も、走っている速さもまったく異なって見えるはずだ。古今東西、映画はこの「音楽によって同じ映像が違って見える効果」を最大限に使ってきた。『風花』の冒頭も、小川の音と笙が桜とあいまってなんらかの雰囲気をつくるように心がけた。ただしキートンの例は、水平に移行する時間軸の中で音と映像の両者が認識されるのに対して、『風花』では音楽も極力垂直に近い方法で存在出来るよう考慮した。
映画のタイトルでもある『風花』の名のとおり、実際の映像でも本当の風花から、桜の花びらの舞う風景、宴会でまかれる紙吹雪…と様々な風花的なものが登場する。風花自体には音はないので、あるときはそれが小川の音と一緒であったり、あるときは笙の音と一緒であったりするように、わたしはサウンド・デザインしたつもりだ。なぜ笙にしたのかと言えば、通常の映画音楽のようにメロディを提示しなくても瞬間的な笙の響きで空気が変わるくらいのインパクトがこの楽器にはあるからだ。冒頭に書いた「音楽は水平…」というオーソドックスな方法ではなく、周辺聴取的な耳のほうに働きかける音楽。当時よく言われた「音響」的なやりかたは、この方法にはうってつけだった。こうなると音楽も効果音のように垂直の聴取の領域に入ってくることになる。1999年当時「音響」と言われるような音楽が提示してきたのも、この垂直聴取に関連した出来事だったのだけれど、これについては、またいつか項を改めて書きたい。いずれにしろ『風花』で、わたしは初めて、水平ではない、垂直に聴かれる音楽を映画に試してみた。マルタンのライブをみてから2年後、FilamentやCathodeを始めた頃のことだ。実際『風花』の中で行われたことの多くはCathodeの作曲と相互影響しあっていて、その骨格はほとんど同じといってもいいくらいだ。
実はこの方法も別に『風花』独自のことではなく、ある種の映画音楽には最初からそういう効果もあったりする。素朴な例で言えば『ジョーズ』の鮫が登場する時の低音などはいい例で、それこそホラーはそうした音の宝庫だ。音楽と効果音の境界領域にあるさまざまな現象。話がこのへんまで来ると、わたしにとって今一番興味深い仕事をしてる黒沢清監督の映画を遡上に乗せたほうがよさそうだ。彼の映画には、この部分の恐ろしいまでの冒険が随所にあるのだけれど、現時点ではまだ1作品だけテレビの仕事を彼とさせてもらっただけなので、今後ももし継続的に彼とコラボレートすることがあれば、それについてぜひ書きたいと思っている。
(注1)なんでそうなるかの脳のメカニズムについて時々尋ねられるのだが、しかも大抵右脳がどうとか、左がどうとかいうレベルで聞かれるのだが、わたしは脳学者じゃないしで、まったく分からない。よく人種によって右脳がどうとかいう研究があるのは知っているけれど、日本人だけが言語認識に使う右だか左だかの脳で虫の音を聴いているとか言われると、科学的根拠以前に、遺伝を持ち出してゲルマン民族が優れてるとか言い出した人たちと似たような匂いを感じてしまい、反発ばかり感じてしまう。そもそも日本人というカテゴライズ自体が科学的ではなくて文化的なコードでしかないのに、それが科学の成果と結びつくこと自体がいんちき臭く思えるのだが。日本人というカテゴライズに科学的な根拠なんてなくて、あくまでも環境や言語にもとづく文化的なカテゴライズでしかないのに。もし、さも日本人が科学的にもほかと違うんだ…というようなことを言い出す人がいたら、あたまから疑ってかかるべきだ。科学の半端な知識と、文科系の安易な思考が結びついて、さも科学的になにかが証明されたかに見える現象が出てきたときは、わたしは反射的に疑うことにしている。それは宗教のいかがわしさや危険さとそっくりだからだ。
(注2)そう考えると、音楽を見る際に、音響という概念と、音韻という概念を対立、あるいは対になる発想のように置くことはまちがっているし、そもそも両者は、同じ遡上でくらべるようなもんでもないって気がしている。「どんな音響的な演奏にも音韻はある…」というようなことではなく、問題は音楽を聴く際の脳内のソフトがどう駆動してるかの話なのだ。音を出す人と聴く人がいて、なぜ人はそれを音楽だと認識したりするのか…という話が音響を考えていくことの根本ではないだろうか。それは音楽の文法を紐解いて音楽の構造を理解することとは根本的に別の作業のような気がしている。このへんについては、まだ漠然としているので、もう少し自分の中で整理しつつ、この連載でも深く切り込んでいけたらいいなと思っているが、いずれにしろ「聴取とはなんなの
か」を考えていかないことには、わたしにとって音楽の未来はないな…という気が強くしている。
*ここのところ、この項で再三触れているマルタン・テトロが来日します。東京公演は11月11日、六本木スーパーデラックスにて。出演はマルタン・テトロ、ジアン・ラブロッセ、フィラメント:Sachiko M、大友良英 、竹村ノブカズ。詳細はHEADZに問い合わせるか、ホームページを参照ください。HEADZ(電話:03-3770-5721)。
11月9日に久々に東京でギター・ソロをやります。会場は西荻ビン・スパーク(03-3395-9299)。前売り2000円、当日2500円。7時開演で他に蛍光灯楽器のオプトロンを演奏するオフサイトのオーナーでもある伊東篤宏さんなんかが出るようです。
よろしくです〜。