前回、前々回の内容は、レコードを使わずに、ターンテーブルやカートリッジの持つノイズや接触不良音等の音の質、あるいは音のテクスチャーのようなものだけで音楽が成立しているマルタン。1997年のライブ演奏をもとに、「音を並列にならべて音楽を構成していくのではなく、垂直に存在する音だけを考えて即興する…」方法を検討。さらにはデレク・ベイリーのやってきたイディオムを回避するような即興との関連と、その差異について述べてきた。今回はなぜそんな、まわりくどいことをしているのかという根本的な部分について考えてみたい。
マルタンにしても、ベイリーにしても、なぜこんなやっかいで、手間のかかる方法を使って、ある種わかりにくい音楽を作るのだろう。同じ即興でも、多少の起承転結をつけるとか、なんらかのとっかかりになるような和声とかがあったほうがわかりやすいし、事実フリージャズを始めとする多くの即興演奏やノイズ・ミュージックにはそうしたものが存在したり従来の音楽の持つ祝祭的な要素があってカタルシスを感じるとかするものだが、マルタンやベイリーの音楽は最初から音楽のそういう部分を拒否しているようなところさえある。ベイリーの書いた『インプロヴィゼーション』から引用しよう。
「イディオマティック・インプロヴィゼーションをするほとんどの人にとって、そのイディオムに照らして自分の演奏が正統的であるかどうかは最重要の問題であり、第一の関心がそこにある。ところが、ここでもっとも重要だった努力の目的が、フリー・インプロヴァイザーにはないのだ。自己同定しうるスタイル上の伝統がいっさいないのだから」
ここに出でくるイディオマティック・インプロヴィゼーションとは、あるジャンルの語法を使った、あるいはその中での即興演奏のことで、ロックやフラメンコからフリージャズなどをも含む。それに対して70年代当時のベイリーが言っているフリーインプロヴィゼーションというのは、まだ歴史もほとんどなく、イディオムも見えにくく、こう演奏しなければ「フリー・インプロヴィゼーション」と呼んではいけない…といったような概念の固まる前の状態で、演奏者の多くもまだ若く、正統性などということを主張しだす前の時期の彼等の演奏のことをさす。
この一文がなぜ興味深いのかといえば、ここに「正統」という言葉が出てきているからだ。あらゆる音楽のジャンルは必ず「正統」を必要とする。これがなければジャンルが成立しないと言ってもいい。「正統」とはすなわち、元祖直系の音楽のことで、ものすごく卑近なレベルでいえば「××こそロックだ」とか「こんなのレゲエじゃないよ」みたいな、あるいは「ビバップもできないようなやつのフリーなんていんちきだ」といった類の発言に代表されるような、素朴な、しかし理屈じゃないだけに非常に強固な正統願望みたいなものを裏に感じるものから、もっと厳格に伝統音楽の世界にある世襲制のように明確に「正統」を定義したものに至るまで、音楽のジャンルはこうした類の歴史観によって成立しているものだ。「異端」といわれるようなミュージシャンがもてはやされるのも「正統」があることの裏返しだ。
ジャンルの話をしだすと、必ず思い出すのが民族の話だ。民族というのも、いつの時代にか作られた(多くは捏造された)歴史観を無意識に受け入れて「正統」をつくることで成立する概念で、だから民族には異端者が必要で「異端」があるからこそ「正統」も存在出来る。その民族の「正統」を保障するいくつかの要素の中でも特に強いのが人種と言葉のなまりで、顔やなまりが正統な流れかどうかを人間はすぐにかぎ分けてしまうくせがある。標準語は単に共通語がないと不便だから作られたのではない。「正統」を生むためには中心になるものが必要なのだ。
音楽もこれと同じだ。
ある音楽が生まれたとたんに、いつでもこの中心点が生まれてしまう。チャーリー・パーカーの語法との距離でジャズの正統性をを見たい人にとっては「白人のジャズなんて…」にもなるし「ビバップもできないようなやつのフリーなんていんちきだ」になる。ベイリーは即興からイディオムを廃するなかで、この「正統」という考え方からも自由に
なろうとしていた。これは私流に解釈すれば、演奏者による脱民族主義宣言に他ならない。
ここで佐々木敦が昨年の東京でのアーストワイル・フェスティバルのライブ音源が集められたBOXセットによせた文章の一部を引用しよう。
「90年代以降のフリー・インプロヴィゼーションが直面してきた問題は、簡潔に述べれば、次のひとつの問いに集約される。すなわち、いかにして演奏しないか? その前段階として、(かつてベイリーが予告したように)イディオマティックとノン・イディオマティックとの果てなき循環、闘争の歴史があった。イディオムとは弾かれる傍から形成されてゆくものである。ある時誰かが(ことによると偶然に?)鳴らした一音は、その場でイディオムになる。次にその誰かが、あるいは別の誰かが、その一音の記憶を踏まえて鳴らす一音はもちろん常に別の音ではあっても、イディオムとの関係性、アーカイヴへの参照系を抜きにしては、もはや成立し得ない」
ベイリーが考えたノンイディオムという概念は、確かに音楽の、即興演奏の可能性を提示し、その後に多大な影響を及ぼしたけれども、ノンイディオムな演奏は、演奏されてしまった時点で次のイディオムを生むという循環を生んでしまった。聴き手が常に何かを認識してしまう以上、ノンイディオムであり続けること、言い換えるなら無垢な状態でい続けることは不可能だ。ベイリーが『インプロヴィゼーション』を書いた70年代とは異なり、今や、ベイリー等が初めた即興演奏すらフリー・インプロヴィゼーションという名のイディオマティック・インプロヴィゼーションになっている…と言っても間違いではないだろう。マルタンがやろうとしたのは、この聴き手が何かを認識してしまう」ということへの挑戦でもあった。それはベイリーが演奏することによって脱民族宣言をしたのとは逆の方向、つまりは聴き手のの認識を問題にするために「いかに演奏しないか」という方向の脱民族宣言だったと言ってもいいだろう。これまでの概念では認識出来ない音楽。マルタンがそれをやった97年あたりを境に「いかに演奏しないか」という方向の演奏がでてきたのもその流れだ。マルタンは97年当時、「いかに演奏しないか」をターンテーブルからレコードを取り去ることによって実践しようとしていた。それはその後にでてくる「いかに音を出さないか」の前段階のようでもあり、あるいは違うベクトルとも言える。音を出さないのではなく、なるべく演奏と言えるような要素を廃したのだ。それによって並行に流れる音の連なりの物語から垂直な音のテクスチャーへとマルタンは移行しようとした。
97年のマルタンの演奏はまさにそんな演奏だった。だからストリート的なアバンギャルド中心の音楽が並ぶフェスの中でも彼は異端者扱いだった。本来なら異端を生まないような音楽だと思われていたユートピアですら簡単に「正統」はつくられ「歴史」が生まれていく。私はそういう考え方には非常に抵抗を感じる。それは例えば日本民族の名のもとに、日本在住の中国人におそろしく差別的な発言を続けている石原都知事をまったく支持できないのと同じ理由だ。私は音楽の中の小さな「民族主義」のような発想を支持できない。あるいはそういうものが意識しないうちに生まれてしまうようなあり方をなんとかすべきだと思っている。現実には、本物の民族主義ほど危害を及ぼすこともないから、音楽の中の小さな民族主義に目くじらをたてる必要はないのかもしれない。実際クラシックとかジャズとか、あるいは雅楽とかの古典音楽は「正統」の存在でもってるわけだし、その世界をぶち壊せ…とはまったく思わない。そういう音楽の成り立ちかたがあってもいいと思う。ただ少なくともそういうこととは別に出てきた、新しい音楽、特に「正統」を本来求めないような音楽のなかに「正統」が生まれ、それを気付かなかったり、当たり前のように振りかざすやつらが出てくることのほうが恐ろしいと思うのだ。こういう無意識の「正統」のほうが、古典の閉じた世界の話よりよほどたちが悪い。たとえば「正統」とは関係ないと思われたフリー・インプロビゼーションやノイズ・ミュージックでさえ、あいつは「正統」じゃない…という言い方をしてしまう現場を既に皆さんは反吐がでるほど見てきているはずだ。たかだか20年、30年の歴史しかないものですらこの始末。いや、正確にはたった数年でも歴史と言えるようなものが生まれてしまう。「民族主義」はこうして実に簡単に生まれ、すぐに保守化してしまう。
イディオムを即興から消し去ろうとしたベイリーの挑戦も、前後の関係で物語を見出すように音楽を認識する平行な聴き方ではなく、前後関係の見えにくいところで垂直につくられた音の響きだけで何かを聴き取ろうとするマルタンの挑戦にも、その背景には、こうした意味が込められていると私は考えている。「正統」を生まない…それは人間が常に時間軸の中で何かを歴史的に解釈することでしか生きられない以上、イディオムを生まないのと同じくらい夢の話なのかもしれない。それでも「正統」という幻想のもたらす様々な問題(原理主義だってこの問題でもある)を考える時、私はこの問題を無視しては先に進めないと思っている。