Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJMA日記番外編

香港、中国、そして台湾〜ディクソン・ディの挑戦、その3〜

大友良英

ディクソンからメールが来たのは2004年の8月。10月に台北でノイズやオルタナティブな音楽や映像のフェスがあるから来ないかという誘いだった。頚椎ヘルニアの治療で秋は欧米のツアーを全てキャンセルしていたが、状態も良いし、交通費、ホテル、食事とある程度のギャラも出て断る理由はない。急遽台北に飛ぶことにした。

台湾は2度目。この連載で前々回に紹介した香港のサウンド・ファクトリーの台湾進出を記念したイベントで来たのが1996年。それ以来になるから9年ぶりだ。前回のときはパーティに香港の大スター、チョウ・ユンファが来ていたり、記者会見があって夕刊紙やファンション雑誌に載ったり、豪華なホテルに泊まったり…どう考えても、ただのノイズ好きの青年達がはじめた香港発のインディペンデント・レーベル、サウンド・ファクトリーとは思えない感じだった。ヘンリーは多分、レーベルを維持するために、この時期、台湾の大手と仕事をしたりしてかなり無理をしていたのだ。この無理がヘンリーとディクソンの間の溝になり、しいてはサウンド・ファクトリー倒産の原因のひとつになったように思う。

なんだかそぐわない待遇の3日間を過ごした後、僕等は安ホテルに移動し、地元の小さなライブハウスで即興のギグをやったり、当時アーティストの溜まり場になっていたカフェに毎晩のように行って、何人かの友達も出来たりした。その中には、すでに僕等の間で話題になっていたエリック・リンもいた。彼はおそらく台湾で最初にノイズ系のCDをリリースしたミュージシャンで、リーダー的な存在だった。他にもアート系の新聞記者、パンクバンドをやっているちょっととがった感じの連中等々、いろいろな連中が出入りしていた。でも、東京のようなまとまった音楽シーンがあるわけではなくて、むしろ、なにかその前夜みたいな熱気だけがあった感じだ。当時まだインターネットを持っている人は少なかったというのもあって、その後何回かFAXや手紙のやりとりをして以降、彼等とは疎遠になってしまっていた。

9年ぶりの台北は、薄目で見れば96年と同じような風情だけれど、よくよく見るとものすごい変化を遂げていた。東京やソウルとますます似てきたのだ。ソウル、東京、大阪、香港、台北、東アジアの大都市は、無論まったく別の個性を持ってはいる。でも、私自身旅が多い暮らしをしているせいかもしれないが、差異以上に共通点ばかりが目にはいってくるのだ。共通のコンビニやカフェがあるとか、そういったことではなく、むしろ非常に違うと言われている都市の匂い、空気感のようなものや、街のスピード感のほうが似てきているような気がするのだ。当時の皆はどうしているのだろう。変わった街を見ながら、連絡先もわからなくなった友人達のことが急に気になってきた。

到着初日、フェスの会場に行くと、いきなり懐かしい顔に出会う。パンクバンドのメンバーだったDINOだ。わたしが到着する前日に彼のラップトップによるソロがあって、彼は連日フェスに来ているらしい。まわりに聞くと、みな口をそろえて彼の演奏を讃えている。彼続けてたんだ。しかも今の姿になって。すごい聴きたかった。会場は古いビール工場の建物を利用したもので、ここの敷地全体がアート・コンプレックスになっていて、若いアーティストにアトリエやギャラリー、イベント会場として開放しているようだ。やはり9年前とは状況がまるっきり違う。

このフェスのオーガナイザーはディクソンの企画でこういう音楽の存在を知った若い女性アーティストで、ディクソンはすっかり彼女に頼りにされている。企画をしているのが美術家というのも面白い。ちょうど代々木のオフサイトが美術家によってはじまったように、ここ台北でもインディペンデントな活動をするアーティスト達のコミュニティが存在していてるようだ。ディクソンは台湾や中国の各都市でこうしたネットワークを築きながら、着実に自分達の居場所をつくってきていたのだ。もうチョウ・ユンファも記者会見も僕らには必要ない。

2日目ラップトップで映像を出しながら演奏したディクソンは、すでに貫禄すら感じられる内容で、90年代のやんちゃなノイズ青年だった彼とは別人のようでもあり、でも一貫してつながるものもあって、見ていてお互いずいぶん遠いところまで歩いてきたよな〜なんて思ってしまった。美術学校やの生徒やミュージシャンの卵のような子達のボランティアが手作りでつくった会場には、連日100人以上の人たちが詰め掛けていた。わたしのソロにも多くのお客さんが来ていて、灰野敬二の演奏する日などは大変な入りだった。台北には彼のファンクラブまであるらしい。翌月にはサインホ・ナムチュラクとディクソンのコンサートも台北で開かれたと聞く。残念ながらエリック・リンは欧州ツアー中で会うことが出来なかったけど、確実にアートと渾然一体となったシーンがここには存在しているようだった。

演奏終了後DINOの誘いで、友人がやっているというカフェに灰野さんやディクソン、台北で出会った仲間たちとくり出した。なんとその店をやっているのは、9年前のパンクバンドの連中だったのだ。皆30代、大人になっていたけれど、どう考えても、あの当時の魂はそのままって感じだった。例によってわたしはディクソンと夜遅くまで、音楽のこと、社会のこと、そして近い将来の計画を語り合った。わずか3日の滞在という短い時間のなかで、ここのシーンの全容を語れるような情報は得られなかったけど、でも、ソウルといい、台北といい、僕等の住む東京と同じように、政府も企業も関係なく、身軽に一人で立ちながらやっていく等身大の音楽の居場所が着実に出来てきているのだ。それはかつてカウンターカルチャーが叫ばれたころのアンダーグラウンドとはちょっと位相がちがうもののような気がしている。なぜなら、僕等に共通しているのは既成文化に対するカウンターとして音楽をやっているのではないからだ。僕等がやっているのは敵に向かって攻撃をするような音楽ではなく、僕等の居場所を自分の手で確保していくような、自分の生き方を自分の方法と判断で決めていくような、切実だけどおおらかなサバイバルの音楽なのではないだろうか。その意味で東京に住むわたしと、香港に住むディクソンとは、そしてソウルに住む佐藤行衛やアストロノイズの2人とは同じ土俵に立っているのだ。僕等だけではない。先日来日したスウェーデンののマツ・グスタフソンやベルリンのアクセル・ドナーも、皆同じ土俵にいるミュージシャンだからこそ、少ない共通項のなかで一緒になにかが出来るのだ。こんなことはわたしが香港に行き出した15年前には考えられなかった。匂いやスピードが似てきていると感じたのはそういうことかもしれない。やっとおなじ目線で、なにかをやれる環境が、僕等の間に芽生えてきたのかもしれない。そう思うのは楽天的だろうか。


Last updated: October 18, 2005