大友良英
1997年イギリス植民地であった香港の中国返還は、その後の政治的な変化という大局的なものだけではなく、僕等の生活にも大きな変化をもたらした。わたしにとって、なにより大きかったのは、この時期を境に香港の映画産業地図が激変したことだ。これはなにも返還だけが大きな理由ではなく、VCD(DVDの廉価版)の登場で、香港の映画館が軒並み倒産、映画産業自体が傾いてしまったのが原因で、わたしに映画音楽を依頼してきた小さな映画会社は軒並み姿を消してしまい、大物監督やスター達も仕事場を求めてハリウッドに進出していったのだ。香港映画が世界の舞台に出ていったのは、地元香港の映画産業の衰退と対になった出来事だったのだ。そんなわけで、香港で映画音楽やサントラCDを出してきて、いまでも中国映画の音楽家のようなイメージがあるわたしだが、実は98年以降は中国、香港の仕事は一本もやっていない。
前回も書いたが、同じ時期にヘンリー・クォックのやっていた「サウンド・ファクトリー」も負債を抱え倒産。ヘンリーはその後音楽の世界から去るが、逆にサウンド・ファクトリーの縁の下の力持ち的役目をしてきたディクソンが、いよいよ本領を発揮し出す。彼は、中国の標準語である北京語と香港の標準語広東語、そして福建省や台湾で使われる福建語のバイリンガルでおまけに英語も使う。その語学力と、大陸と自由に行き来できる中国パスポートを生かして、まずは香港に一番近い中国の大都市広州のミュージシャンや学生、アーティスト達と頻繁に交流するようになる。中国語の音楽雑誌を発行、ソニック・ファクトリーやノイズ・エイジアの名義でCDのリリースやデストリビュートを展開、さらに広州で活動するオルタナティブ・ロック・ミュージシャンのワンレイがやっている非合法のロック・クラブを使ってコンサートを企画したりDJショーをやったりと、確実に中国への足がかりを築いていた。ちなみにこのクラブは警察に袖の下を渡して運営、電気はとなりの工場から盗電していて、めちゃくちゃ居心地のよい場所だった。
1999年わたしとSachiko Mは彼に呼ばれて、まずは広州のワンレイのクラブで演奏。初期のFilamentで、いまよりはるかにノイジーで暴力的な音楽だったが、ディクソンも負けないくらいノイジーな演奏をしていた。集まった客は若い学生を中心に100人以上、会場は熱気でぎゅうぎゅう、素晴らしい手ごたえだった。これで中国でもこういう音楽が…って思ったのですが、でも現実はそうそう甘くはなかった。その足で飛んだ北京の会場では散々だったのだ。大きなクラブやライブハウスで2度ほど演奏したのだが、お客さんはどちらもわずか十数名。ほとんど、なにも理解されなかったような気がして、僕等は非常に落ち込んだ。それでも演奏が終わったあと、コンサートの主催者の一人の青年詩人のイェンティェン等がホテルまでつめかけてきて、かたことの英語と筆談、そしてディクソンの通訳をまじえて、朝まで音楽や政治のことを語り合ったのは、今でもものすごく印象に残る出来事だった。とはいえ、まだまだ僕等にとっては想像もつかない異文化の都市なのだ。
それでもディクソンは動きを止めなかった。単身チベットに行き、向こうのミュージシャンとコラボレーションしたり、灰野敬二、吉田達也、カルコフスキー、SachikoM、ほか様々なミュージシャンの中国ツアーをサポートしたり、北京、台湾、広州のオルタナティブな活動をするミュージシャンの間を頻繁に行き来し、リリースを手伝ったり、自らもDJ-DEE名義でクラブ・ギグを中国各地でやりつつデイクソン・ディやリ・チンシン名義で中国、台湾から欧州にいたるまで世界各地でコンサートをやったり。彼の行くところ確実になにかの種が蒔かれている…という印象だった。
昨年になって北京の青年詩人イェンティェンが、突然CDRを送ってきた。しかもおなじ時期、イギリスの雑誌ワイアーに、1999年の北京でのFilamentとデイクソンのコンサートのことをレポートしたのだ。あの客が十数人しかいないコンサートが彼等にとっては伝説のような、重要なライブだったのだ。彼から送られてきた2枚のCDR、それは彼やその仲間達が作った音源で、独自の世界を持った彼等だけの不思議な音楽だった。僕等のコンサートは無駄ではなかったし、ディクソンの動きは確実に中国になにかをもたらしつつあるのだ。
昨年、久々にディクソンから連絡があった。10月に台北でやるフェスに来てほしいという内容、でわたしは台北に飛ぶことにしたのだけれど、その続きはまた次回。