Improvised Music from Japan / Taku Sugimoto / Information in Japanese

沈黙の哲学について

以下の文章は、先日キッド・アイラック・ホールでおこなわれた私の作曲作品コンサートのためのプログラム・ノートの代わりに書かれたものである。手直しは殆どしていない。急いで書いたものなので、うまく言えなかった部分や分かりにくい箇所があるが、それらの問題は今後、機会のあるごとに書いていきたいと思う。

私は恐らく、ある問題に対する解決法よりも、問題そのものを提議する方が好きなタイプの人間である。ある思想や体系に基づいて考えを深める、といったことは私にはできないだろう。「単に思いつきを並べているだけ」と捉えられても仕方がないかも知れない。突っ込んだ議論は、むしろ他の誰かにやってもらいたい、というのが私の本心である。

2005年11月29日 杉本拓


沈黙の哲学について

私がやっているような沈黙の多い隙間だらけの音楽について、それはジョン・ケージの焼き直しなのではないかという声をよく聞く。もし多用しているものが沈黙ではなくて普通の音符であれば──これこそ誰もが焼き直しているものであるが──そういうことは言われない。音符の中には休符があるので、これを使えば問題がないかというとそうでもないだろう。もし音のない小節が何百、何千と続けば、 たいていの場合それは沈黙ということになってしまう。何百小節も音のない部分が続けば、それは結果的に音楽の構造から引き剥がされ、耳は自然と周りの音を聴くことに向かってしまうと考えられる。しかしこれは、そういうことをすれば、そうなるだろうという話で、ケージの考えていたことではない。

ケージにとって沈黙とは何であったのか。簡単に言えば、それは「意図されない音」であったと思う。では、「意図されない音」とは一体何であるのか。この問題は実に今日的だと思われる。何故かと言うと、私の考えでは、何が意図された音で何がそうでないのかは、音だけを聴いてもはや判断することはできないという状況が生まれているからである。

ラドゥ・マルファッティも言っていたが、「沈黙 = 意図されていない音」はケージがそれに意味を持たせる前から存在している。そして今もそれはあるだろう。しかし、音楽のある領域において、ケージ以降、明らかに (それ以前からあった )「沈黙」という概念は変化し始めた。それがどのように変化したか、これが私たちが抱える実に興味深い今日的な「沈黙」についての問題である。

現在の視点から見ると、ある状況において演奏者が楽器を演奏しなければ、それ以外の周りの環境音が聴くべき(又は自然と聞こえてくる)音となる、というのは十分に意図的な操作に思える。もし現在、"4'33" を演奏した場合、もしこの曲のコンセプトを知っているのであれば、それは意図されない音を聴くものということとなっているが、しかし演奏者にとっても聴き手にとってもこの「意図されない音」というものがひとつの意図になってしまっている。意図的に空間を音楽に取り入れているといってもいい。

空間は、当然ある程度はコントロールされてしまう。そうでないと、(おかしなことだが)この曲が成り立たない。つまり、こういう音楽を演奏する時には、観客のざわめきや環境音(今日における沈黙の定義は恐らくこれだろう)の質はある程度の予測可能範囲になければならない。このことを前提に所謂沈黙音楽は通常演奏されている。完全なコントロールではないかもしれないが、ここにも完全な非意図は存在しないのにである。それ以外の状況ではどうなるのか。例えば、"4'33" を別の音楽がすでに演奏されている会場で演奏することは可能だろうか? もし、ウィーン管弦楽団の演奏するベートーヴェンのまっただ中でこの試みをおこなった場合、目下の音楽が "4'33" であることをいくら主張したとしても 、やはりその音楽はベートーヴェンであり続けるのではないだろうか。しかしながら、この場合でも事態は、最初の例で意図されない音であるはずのものがある程度の予測可能範囲にある、ということと似ている。要するにベートーヴェンが如何に演奏されるかも予測可能範囲内にあり、逆に考えると、100%の確信をもってコントロールできない点では環境音と同じである。楽器で音を出そうとする場合でもこのことは避けられない。すべては程度の問題に過ぎないのではないか。ベートーヴェンであろうが、環境音であろうが、楽器の音であろうが、それらが大体どういったものになるかという見取図を私たちは持っているという点では大した違いはない。(ならば、ベートーヴェンを沈黙だとすることも──その困難さは乗り越える価値があるが──同じことではないのか。) この見取図を取り払うことが果たして非意図的聴取につながるのだろうか。

ある同一の音楽を指して、それが "4'33" であるか、ベートーヴェンであるか、ただの日常音であるかの違いはただ音楽のタイトルだけの違いである。それでも、この違いは単なる観念上の違いだけとは私には思われない。「非意図的聴取」とは相対的にしか機能しないコンセプトであるとすればどうだろう。そして、それは認識の複雑なプロセス全てに関わるとすれば。いかなるものも沈黙に成り得、その逆もあり得る。

さて、以上のような前置きの後に、私は結論めいたことをとりあえず書いておきたいと思う。あとは勢いにまかせる。

まず、すべての音が意図的にも非意図的にもなり得る以上、それが沈黙であるかどうかはコンテクストにより異なるということ。音自体にはそのような判断を下すことができる情報をもう持っていないと私は考える。

次に、ある音が沈黙にもそうでないものにもなり得ることを示す分析が果たして音楽を考えたり鑑賞したりするのに必要なのか、といったつっこみに対する私の態度をできるかぎり明確にしたい。

何が沈黙であるか、意図的と非意図的がどうかなんて大した問題じゃない、音だけが音楽の問題なのであって、それをどのように認識するかなんてどうでもよい、という意見はもっともであろう。まあ、そうかもしれない。それに答えることは容易ではないが、しかし、素朴な疑問として、「音を音としてただ聴く」、そのようなことが可能なんだろうか? もし、そのようなことが可能ならば、それこそ本当の意味での非意図的な音への関わりなのではないだろうか? そうすると、すべての音がどうでもよいものになってしまいかねない。そこに音楽が存在できるだろうか。音楽とは音とその他のものとの複雑な関わりの中で発展してきたものである。それが音楽ではないのか。音が音だけで存在することと私たちがそれを知覚することは明らかに別の現象である。

ある音が別の音よりも価値がある、単純にそのようなことが可能だろうか。E音はD音より特別な存在なのだろうか? コンピュータの起動音は雨の音より興味深い音なのか? それらの音は、ただの音としては──そのように聴くことが本当にできるとして──ただの音以上に成り得ない。何か音を聴くということ、それはその音が示す情報を別の関係性のもとで判断することではないのか。E音もコンピュータの起動音も雨の音も、それらが何らかの意味を持つだろう関係性の中でそれぞれ固有な音としての資格を獲得しているのではないかと思う。音の固有性というのはその音に対するある程度の認識の一致があるから成り立つのではないか。

ある特定のピッチを持った音をそれに対応する周波数を持つものとして定義すれば、例えばCの音はEやGとうまく協和するといったことをそれぞれの周波数を比較することで数字上で現すことができるが、これは、音の協和ということに関して信頼できるデータなのか。音が協和するとは感覚的なことかもしれないが、その感覚は絶対的なことなのか。ドミソが協和音であるというのは偶発的なことかもしれないではないか。それが協和音でも単なる和音でもピッチを持った音でもないものになっていたことだってあり得るのではないか。まったく別の音の並び──いかなるものでも──が協和音になっていた可能性があり、そこから今日のとは別の(むしろ、狭い意味では同じでもよいが)方法による周波数測定によって、それらの音が協和することを数字上で表すこともできるであろう。もしそうなっていれば、音楽はまるで違ったものになっていただろう。その可能性の中には、今私たちが音楽ともなんとも思わないある表現形式も含まれているかもしれない。そして、それを音楽であると強引に主張する、という離れ業もできるだろうが、それができる背景には、何が音楽であるのかという共通の概念が漠然とでもいいからなければならない。実際にドミソは協和音であり、今それとはまったく無関係の音の並びが現在の協和音の地位を占めているわけではない。音楽について巡るいかなる思考実験も現在の状況を土台にしておこなわれているからだ。裏を返せば、音楽ともなんとも思わないある表現形式を音楽であると強引に主張する、ということが現在置かれている音楽の状況から自然に派生しているものなのである。ある音を、音そのものは同一であるのに、そうでないと認識することは十分可能でなければならない。

しかし、ある音が──コンピュータの起動音でも雨の音でも、その他なんでもが代入可能である──それとは別の音にも成り得る、ということは一体どんな意味を持っているのだろうか。ある音について、それが別の音でもあり得、しかもそのもとの音はその音であり続ける、というのは、ある音に別の名称を与えることができるという、ただそれだけの話かもしれない。つまり、(例えば)雨の音はC音である、といった認識が成立することである。これはおかしな話ではない。

音は同じでありながら、それに対するコンテクストは置き換え可能である、という考え方に私はとても惹かれている。それは、よく言われる「解釈は多様である」というのとは多少意味が異なる。

具体例を出そう。サンプルには私のアルバム『Live in Australia』を使う。これは私のコンサートを録音した、私の音楽ということになっている。このアルバムがそういうことになっているのは、私がそれを主張し、それをある制度が受入れただけのことであって、別のコンテクストでは、まったく同じ内容の音でありながら違った音楽であることも可能なのである。例えば、このコンサートはオーストラリアの音楽家マシュー・アールが録音してくれたものであるが、彼がある状況を録音したフィールド・レコーディングの作品であるとみなすこともできる。もしかしたら彼にとって、私のコンサートという状況そのものが上演された「沈黙」であって、その「沈黙」を録音したものを "4'33" のタイトルのもとに発表することもあり得ることではないか。または、ある作曲家が、「ある状況を録音せよ」という指示の曲を書いていたのかもしれない。または、CDを演奏する音楽家がいて、彼が──私でもいいが──私の『Live in Australia』をノーカットでかけた、それの記録であるということもできる。これらの例は、音だけを聴いていてはどんな音楽でも、それが誰の音楽なのか──というよりなんであるのか──ということすら判断できないのではないかということを示している。

さらに突っ込んで言うと、ある録音物がいい音であるのかそうでないのか──原音にどれほど忠実であるか──といった問題もコンテクストにより異なるはずである。そんなことは当たり前のことであろう。たが、例えば、「MP3の音が悪い」といった話も、それが何かの再生音であるという前提をもとに成り立つ話であり、その再生音を演奏する音楽家がいてその演奏の記録(同じ内容になる)であるならば、それについて「音が悪い」と言うことはおかしなことである。しかし、このふたつの音楽は音はまったく同じものなのである。ある音について直感的に「音が悪い」と感じることは、その音楽を取り巻いているひとつのコンテクストが他のものより優勢であることから来るのにすぎないのではないか。

ある音楽はあるコンテクストと密接につながっている。ベートーヴェンがベートーヴェンに聞こえるのも、環境音が環境音にしか聞こえないのも、このことが関係しているのではないか。しかし、そうであるからこそ、私たちは普通に音楽を鑑賞することができる。「沈黙」についても同じことが言える。だが、現在一般的に流布している沈黙の概念だけでこれからの沈黙も考えてよいのか。「沈黙」=「意図されない音」として一刀両断してよいのだろうか。ケージの時代では沈黙は意図されないものであったかもしれないが、今日それは意図的なものとしても見なされ得るのである。それどころか、ある意図のもとに手軽に利用されていると言ってよい。

話を最初に戻して、沈黙と休符について考えてみることにする。通常音楽を聴く時に、休符がある一定のパターン上に現れる場合は沈黙とは見なされないだろう。例えば、4分音符と4分休符が交互に続く場合や、全休符が続く時でも、それがあるパターンの一部として認識できる場合などである。これらのケースでは──普通の音楽の大半に当てはまるが──休符は音楽の構造にとって必要な素材である。しかし、私たちがあるパターンを体感できるのは、それら音符と休符の関係がある範囲内にある時に限られている。論理的には4分音符の長さは一秒にも一時間にもなるだろうから、一時間の持続音の後に一時間の沈黙が続くような音楽を一定のパターンを持ったものとして主張できるだろうし、それがそのようなものであると理解することはできるだろうが、一時間の休符の場面に立ち現れてくるものはいつもの沈黙と何が違うのか。もちろん、音としては何も変わらない。しかし、あるコンテキストが優勢であるような時でも、それを別のコンテキストに置き換えることで、ある認識上の変化が現れるはずである。この認識上の変化が聴取のあり方そのものに影響を与えるのでははないか。もし長い休符部分が実際はそうではない、とすればどうだろう。実は、長い持続音の方が休符に相当し(なんでもよいが、冷蔵庫などの音が予期せず鳴っていたとしよう)、休符と思っていたところは、音楽家がほとんど聞こえない音である一定のリズムを演奏していたのかもしれない(もちろん、演奏家が何も演奏してなくたって構わない。音がほとんど聞こえない音であるなら、それを演奏することと何もしないことは同じことであり得るからだ)。休符(沈黙)をそう思って聴くか、そうでないかでは、明らかに音楽に対する心構えに変化が生じるはずである。休符であるか沈黙であるかによっても違うだろう。そのことによって、音が同一(同一性を保つこと)であることをやめる可能性すらある(これは先に述べたことと矛盾するかもしれないが、音の同一性自体が認識上のものであるならば、あり得ないことではない)。

これまでに述べた様々な問題は、沈黙のコンセプトがそろそろ改定される必要性があることを意味しているのではないだろうか。この長かった道のりの影には、無数の実地や実験や様々な問題提議があり、そのおかげで新たなる音楽上の可能性や発見があった。だからこそ、一時間の4分音符と4分休符が交互に続くような音楽も、様々な捉え方のもとに、実際にやってみる必要がある。そして、ここから新たな問題が当然浮上してくるはずである。だからと言って古い沈黙の概念があったって、ちっとも構わないと思う。休符も含め、ほとんどの音符(または直接的に音を扱うことでもいい)はこれからも通常の操作で十分である、という事態はこれからも続くだろう。もちろん通常でないやり方も試み続けられるに決まっている。それらとは別に、認識上の改革もそろそろあっていいのではないか。それがどこから来るかと言うと、それは沈黙に今日どう向き合うかという問題からであり、ケージの提唱した沈黙の思想が当初のもくろみ以上に──それこそ喜ぶべきことである──複雑に発展してしまった結果からである。


Last updated: December 15, 2005