文:中村としまる
というわけで、杉本拓から半ば引き継いだかたちで、このベルリン音楽シーンに関する文章を書くこととなった。
これに先立ち、しんじく歌舞伎町クラブ・コードにおける永田一直さん主催のオールナイト・イヴェントに出演および楽器の設置のため、午後11時ごろ、「あ、やば、遅れるかも」なんてクラブ階下のエレヴェーターへと突進中、女学生風情の我を呼びとめる声あり。
「ふいまへーん、クレクレタコラってなんでふかあ?」だ。だあ? 無視することも出来たのだ。或いは、「たわけ、町人風情が。場をわきまえんか」と一喝することも出来たのだ。なんならば、秋山徹次に頼んで秋山家に伝わるという真剣をば借りうけ斬捨て御免にすることも出来たのだ。世が世ならば。だが僕はそれをしなかった。世が世ではなかったということもある。見れば地べたに坐りこんだ十代女子二人とやはり若そうな若僧な白人男子二人。彼らのほうがよほどその深夜歌舞伎町にそぐうもの達であり場をわきまえた存在であり、これから電子音による崇高なる音響空間を構築せしめんと、「あ、やばっ、遅れるかも」と気色ばんでいる僕のほうがその場に不似合いだったことに気付き、後ろめたい気持ちになったということもある。だけどもなによりそれより僕自身が「は、クレクレタコラって何だっけ?」と立ち止まってしまったのだ。ほどなくまもなくそれは僕が今よりもやや無垢な存在だったかもしれない数十年前に、テレヴィか雑誌などの娯楽メディアによってこの世に散布されていた何かの象徴だったろうと思い当たった。そしてほどなく恐らくかかる女子二人は、かの若そう若僧白人男子二人によって、「クレクレタコラ知ってるー?」とナンパ目的でたずねられ、それが彼女達の生まれる前のすごーい昔のものだよん、とヒントを与えられるにいたって、たまたま通りかかったこの僕、彼女達よりはすごーく昔のことを知ってそうな、まあいわばいわゆるそんなこんな年齢のこの僕に白羽の矢が立ったのか、と思い知るにいたり、「諸君、この夜を楽しみ給え」と言い残し階上へと向かうことにした。じっさい彼達彼女達が朝まで仲良くクレクレタコラについて語り明かして楽しんでくれたら良かろうと思っていた。でもそんなはずはない。深夜のしんじくには他にも楽しいことはあるんだろう。今度は僕が一人で引き受ける番だと、その日のソロ・セットは耳の中のクレクレ・ループにあわせて演奏することになってしまった。というわけで、この文章には出来るだけに多くの駄洒落、あほ、およびどあほがちりばめられている可能性がある。なぜならこれは学者による報告書ではないことは自明であり、読者の方々は常にこれらが裏がとられていないだけではなく、はなっから鼻から口からでまかせやも知れぬという疑いをもってかかるであろうことであり、その矛先を少しでもかわしておく必要性があるからである。まあ僕なら学者の報告書だって、どうだかねって思うだろうけど。とにかく、口先三寸で生きてきた末に人からも自分自身からも信用されないということになると、何をするにもより多くの手続きを必要とするようになるのである。
僕が最初にベルリンを訪れたのは1991年の初夏なので、ベルリンの壁が開かれた半年後という事になる。そのときは演奏機会は持てずに、ただ右往左往していただけだった。あ、いや演奏機会を持てなかったというのは正しくないな。街で、街頭で演奏をした。友達の友達から借りた状態の悪いアコースティック・ギターを弾いて、小銭やパンやチーズを頂いた。歩くのもおぼつかない老婆がわざわざスーパーに入って、そういった食べ物を買ってきて僕の前に置いたときに、あ、やめなきゃって思ったな。こんなことを書くとまた同じ区内に住む某氏に、「あんた、そういう考え方は偽善だよ、偽善者くん」って呼ばわれることだろう。彼の言葉には、しばしば真理が含まれているように思う。さて、じっさいその最初のベルリン訪問には、このようにそれてしまった話を元に戻すほどの材料を得られない。
その後ややあって、1994年に春日井学さんの誘いがあって再びベルリンに行き、以降現在に至るまで、毎年1〜2度づつあの町を訪れることが出来ている。旧東側を出ることはめったにない。現在の中心部となりつつあるMitte地区と、そこから北東の丘を登ったあたりのPrenzlauerberg、多くのミュージシャン達がその地区に住み、演奏機会の得られる場所もそのあたりに集中している。ここ数年のそれら2地区の家賃の上昇の影響から、隣接するFriedrichshainにやや滲み出している傾向もある。
PrenzlauerbergのDuncker strasseには今は亡きAnorakがあった。Volker Schneemannというオーガナイザーを中心とするクラブで、毎晩バーとしてオープンしていたほかに、週に2回ほどのペースでコンサートをやっていた。しかしながらアナウンスされていたもの以外にも、きっと多くのシークレットギグがあったに違いない。実際に僕も雑誌などに告知されていたコンサート以外にも、当日や前日に電話をもらって加わったようなジャムセッションが何度かあった。僕がはじめてAnorakで演奏したのは1996年のことだと記憶しているけれど、その前年1995年に、一時は現代芸術シーンの一つの中心であったこともあるMitteのTahelesで演奏した時に共演したミュージシャン達の口から、Anorakのことを知った。そして実は僕がそのTahelesでのコンサートのために寝泊りさせてもらっていた部屋は、Anorakの階上だったことはうかつにもあとから知った。ミュージシャン達が知り合う場所として、実験する場所として、それから発表する場所として、ある一定の期間同じ一つの場所が機能していたことは彼らの音楽に大きな影響があったことだろう。そうやって僕が知り合ったミュージシャン達の名前を順不同で挙げていくと、STOLというバンドをやっていたStephan Mathieu、Olaf Rupp、CutのJason Kahn、Gregor Hotz。Kahnはその後現在に至るまで僕とのRepeatというデュオでも活動している。Burkhard BeinsとのグループもあるIgnaz Schick、Joerk Maria Zeger、高瀬アキのグループで来日したこともあるRudi Mahal、Axel Doerner。Doernerは昨年Kevin Drummとのツアーも面白かったらしい。それから ピアノの弦の部分を取り出して直接そこにアクセスする演奏をするAndrea Neumann。Mathias Bauer、Alex Karkowski、Alex Nowitz、Tony Buck、Kai Wolff、Hanno Leichtmann、Hannes Strobl、Daniel Weaver、Leonid Soybelman、Joe Williamson、Phil Durrant、Mark Sanders....... 実はベルリン出身の人々はほとんどおらず、それどころか今挙げた名前の半数以上は外国人だった。 で、その後、上に挙げた人々のうち、Weaver、Durrant、Sandersの3人はもともとベルリン住んでいたわけではないので別にすれば、MathieuはSaalbrueckenに移り、Kahnはその後GenevaからTokyoを経て現在Zuerichに住んでいるほかは、あまり人の流出はないようだ。逆に流入も少なくなったように思う。壁があった頃とその少し後ぐらいまで、ミュージシャン達の財布を膨らませていた恵まれた経済状況はもはやなく、それどころか比較的演奏機会の多いフランス、ベルギー、オーストリアなどに旅するには、ベルリンは遠すぎるという事情もあるのかもしれない。
1997年(1998年かも?)にAnorakが事情により閉められたあとも、Volker Schneemannは毎年のフェスティヴァルである 「exiles music festival」をTony Buck と共に主催したり、折りにふれコンサートを企画したりしているが、それでも何人かのミュージシャンがミーティング・ポイントを失ったことへの欠落感を表していた。だが今年の春の様子では、彼らはまた別の場所を見つけつつあるようだった。Andrea Neumannは毎日曜日に、自宅アパートを開放して超小音量のコンサートを催しているし、彼女は他にAnorakでも常にその活動の中心だったGregor Hotzとともに、月に一度「KU-LE」と名付けられたコンサートシリーズを始めたところ。「Kunst-Leben」(芸術 - 命・人生)である。なんかすごい名前のような気もする。僕はこの6月にその第一回目に参加することが出来たが、盛況だった。1,2年前までトランペットを吹いていたAxelが、トランペットも手にしながらもパワー・ブックを開いており、サックスをプレイしていたはずのIgnaz Schickがサックスを持たずに、CDやMDを演奏していた。他の何人ものミュージシャンの口から聞いたことだが、ベルリンもご多聞に漏れず、生楽器奏者達の電子化が進んでいるようだ。そんな中、Burkhard Beinsの石の演奏は印象深い。彼とKeith Roweの演奏がハンブルクであり、その次の日に僕も同じ街での演奏があったので、1日早くベルリンからでかけていった。彼はドラマーであり、一応フルセットを組み上げてはあるのだが、ほとんどそれらを叩くことはなく、むしろその上や下や横の近辺で何かの音を発して、ドラムに響かすなどの演奏をしていた。「あまり叩かないんですねえ」と話をふると、「でも今日は叩いたほうかなあ、だって叩いたもの」と言っていた。きっといつもは叩かないのだろう。Burkardが昔話をしてくれた。彼の伯母さんをコンサートに呼んだら、やや遅れてきた彼女は演奏本番中の彼のいるステージに、ドアからまっすぐと向かい、「元気なの? 久しぶりねえ」と握手してきたそうだ。きっととても演奏しているようには見えなかったんだろうな。ま、そんなわけで、2つの石をドラムセットの30センチ上あたりでこすり合わせる演奏は本当に美しかった。
今回の滞在は2週間ほどでしかなく、しかも前出のKai Wolff、Joe Williamsonとオーストリアやハンブルクなどに出かけたこともあって、あわただしいものだった。それでも「KU-LE」での演奏のほかにAndrea Neumannとの2日間の録音、彼女とKai Wolff とのトリオでのライヴ演奏を何度かやることが出来た。
以上僕が見てきたベルリンです。最初に断ったように、裏を取った話はないし、そもそももしかしたら僕はうそつきかもしれない。少なくとも一つ注意していただきたいことは、ドイツ語の地名人名などには、ミス・スペルが含まれている可能性が多分にあるということです。あ、それから、駄洒落が一つも出なかった。あれはやってみたことのある人は分かると思うけど、以外と難しいんですよね。
2000年8月