文:大友良英
2001年4月
すごく個人的な感覚なんだけれど、音楽、特に即興演奏には、方向音痴的な演奏家というのがいて、秋山徹次はその代表のような人だ。誤解されては困るけれど、これは演奏の良し悪しとか、音楽性の上下の話をしているのではまったくない。ましてや演奏中に、自分がなにをやっているのかわからなくなるといったような迷子的な演奏のことを言っているのでもない。わたしの知っている音楽家ではクリス・カトラーも典型的なこのタイプ、身近なところでは、秋山とともにオフサイトでのインプロヴゼーション・ミーティングを企画する中村としまるもこのタイプだろう。
どういうことなのか、言葉で説明するのはとても厄介なのだけれど、方向音痴の音楽家との共演をあえて例えるならこんな風だ。ある友人と初めて訪れた街を歩いているとする。友人は何度かその街に来ている。しかし彼は方向音痴で、以前その街で入った極上のレストランの場所が思い出せない。わたしは友人からそのレストランがどれだけ素晴らしいかの話ばかりを道に迷いながら聞かされるはめになる。方向音痴ではないわたしは、彼の話の断片から想像をめぐらせて、食欲をかきたてつつ、その街の地図と風景を参照し、レストランの場所を特定しようとするが、どうも漠然としていて、見つけることが出来ない。とはいえ、別に僕らは道を急いでいるわけではないので、初めて訪れる街をうろうろしながら、素敵な路地を見つけたり、面白いショップを発見したりして、ついでに最近見たコンサートの話なんかをしつつ、迷っていることも時も忘れて散歩を楽しむ。で、ふと気づくと、なんてことはない、自分たちの泊まっているホテルの目の前が目的のレストランで、無論僕らはそこで、彼の言っていたとおりの、いやそれ以上の素晴らしいディナーを楽しむ。
もしも僕が仕事中の客で、方向音痴がタクシーの運転手なら、ただの困ったことになるのだけれど、幸い即興演奏の現場は、合理的に作業をしなければならない仕事とは異なり、上記の例えのような、ちょっと贅沢な時間が保証されている場でもある。僕らはある時間、時には不合理に、時に不条理にステージでさまようことを許されている。仮に、コンパスと地図を常に携帯し、事前にインターネットで落としたレストランガイドを参照しながら、的確に最短コースで目的のレストランに到達し、ネットが勧めるメニューを迷わず注文するような即興演奏があったとしたら、わたしはきっと興味を持たないだろう。聴いているほうにも、演奏するほうにもリスクのない音楽に発見なんてないだろうし、なんだか貧しくって。せめて音楽だけでも贅沢じゃないとね。
初のソロリーダー作品となる本作はそんな秋山の彷徨を、あますとこなく伝えている。音楽的な内容については、あえてここでは語らないことにする。音楽を発見するのは聴き手のほうで、演奏家はただ音を出す無力な存在であったほうが、面白いとわたしは考えているからだ。こちらから説明したのでは、せっかくの彼の素敵な無力ぶりが台無しになる。ただ、彼や彼の作品を知るために、多少周辺的なことに触れる必要はあるだろう。
秋山の活動のメインの場でもり、本作が録音されたギャラリー「オフサイト」は、美術家であり音楽家でもある伊東篤宏等の手により2000年代々木にオープンしたスペースだ。住宅街の中にある木造家屋を利用したギャラリーには小さなカフェやブックCDショップもあり、優れた若手作家の発表の場となっているが、ここで月に何回かひらかれるコンサートが、東京の新しい即興シーンの静かな実験の場となっている。とりわけ秋山や中村によって毎月行われているインプロヴィゼーション・ミーティングや、伊東自身による「絶対アンテナ」のシリーズ、秋山の長年にわたる朋友であり、今や日本を代表する音楽家でもある杉本拓によるコンポーズド・ミュージック・シリーズ等は、そこに出入りする、数多くのミュージシャンの顔ぶれを見るまでもなく、今現在、世界中を見渡してみても、もっとも刺激的な現場だろう。このライナーを書いているほんの数週間前にも、その「絶対アンテナ」で秋山の驚異的としかいいようのないターンテーブルのソロをわたしは目撃している。本ライナーのテーマからはそれるので詳しくは触れないが、マルタン・テトロ以降のターンテーブルによるオブジェ的な演奏のひとつの答えがそこにあるように思えた。(さらに余談になるが客席にはクリスチャン・マークレイもいた)
秋山はこういった場を見つけ、発展させる名人でもある。と言っても、本人がやっきになって場をもりあげたりするわけではない。彼はいつものように、原付に乗ってあらわれ、カタログやチラシが沢山つまった謎の鞄の中から、彼にしかわからないようなアイテムを取り出してきて、独り言のように、彼のアイディアをぽつり、ぽつりと語るだけなのだ。それでも彼は充分に媒介になって、場を作ってしまう。それは、わたしにとって、まるで方向音痴の彼の音楽に付き合わされる時のように、贅沢で、無意味で、かつ有意義で、ちょっとだけ少年の頃にもどったような素敵な感覚を思い出させてくれる時間でもある。主張するから存在意義があるのではなく、なんだか彼がいる…ってことが素敵だったりするような存在の仕方。
ところで、意地悪な読者なら、こんなことを考えるかもしれない。もしも仮に友人の舌が、味覚音痴で、行ったレストランがちっともさえなかったりすれば、贅沢な時間も台無しじゃないかって。たしかに、方向音痴と異なり音楽の味覚音痴は致命的な欠陥だ。でも心配は無用だ。秋山徹次はとびっきり音楽の味覚に贅沢で敏感な人間だもの。