Improvised Music from Japan / Seiichi Yamamoto / Information in Japanese

川崎ゆきお原画展パンフレット

幻想としての猟奇、その可能性の中心と未来

山本精一

 人間はどうして、この現実の世界の中に、無理矢理ユートピアやアルカディアのようなものを夢想するんだろう。現世というのは、それ程つらく、苦しいものなのだろうか。他の動物や植物たちと同じように、なぜこの世界を、ありのままに受け入れ、どっしりと平凡に一生を送ることができないのか。それはおそらくは、人間をして、人間たらしめている唯一のもの、《精神》のゆくえである。

 《精神》を持つがゆえに、人間は死を怖れる。死にたくないのに、絶対に死ななければならないという現実をどう受け入れるか。肉体の救済が叶わないなら、せめて、たましいだけでも救われたい。そう願う人間の《精神》が、宗教や、芸術や、哲学や、科学を生み、それらの営みに没頭することで、人間は、死を忘れたり、死に親しんだり、死と同化することができるようになった。つまりこれこそが《ユートピア》なのであり、ユートピアは、人間が、死を怖れること、すなわち、自らの存在を問い続けることを止めない限り、永遠に希求される、トランキライザーなのである。

 川崎ゆきお氏のいう《ロマン》もまた、およそ、現実社会では求むべくもない《闇のユートピア》を描こうとしたものだ。太古から連綿と続く、《もうひとつのユートピア》の系譜に、猟奇王も、忍者も、鉄の爪も、しっかり繋がっている。《猟奇王》という特異なフィルターを通して異化された現世に住まう怪人共だ。《幻視者》というのは、一般の者には普通に見える風景の中に、様々な幻想的なモノを見ることができる人々のことだが、猟奇王の場合、そういう意味の《幻視者》とも違うようだ。幻視者は、現実社会の中、普段の生活の中で、好むと好まざるとにかかわらず、いわば《積極的》に《幻》を見る。そしてそれらの体験は、時には優れた芸術などに昇華される。

 しかしながら猟奇王は、そういうことはせずに、現実の中にロマンなど無いと嘆いて、アジトで何もせずに、モナカなんか食べて、ゴロゴロしている。「世の中に容れられない」と言いながら、ウダウダしている。そうだ、猟奇王はロマンティストや幻視者などではない。猟奇王自身が《幻》なのである。川崎氏が、自らの内部で創り出さざるを得なかった、そして我々のような、ぶさいくな生き方をしている者たちが実は待ち望んで止まなかった、あるもの。それが、猟奇王というカタチをもって立ち現れたにちがいない。猟奇王は、人類の中の「ぶさいくな部分」が、必然として生み出した、共同幻想である。

 だから、例えば《ルパン》や《二十面相》のような敷居の高さは猟奇王にはない。彼らは高級なデパートで売られている怪人だが、猟奇王は九条の市場で売られている。あるいは松屋町(まっちゃまち)の駄菓子問屋で、ビー玉やベッタンといっしょに並んでいる。猟奇王の夢想する世界の中に、我々も、自由に入り込んで《猟奇》を楽しむことができるのである。土方のおっさんなんかも、スニーカーさえ用意すれば、怪人たちと一緒に、街を走ることができるし、黒い紙と輪ゴムされあれば、猟奇王になることだってできる。

 私は学生の頃、友人たちと猟奇王を映画化しようとしたことがあったのだが、あんな楽しい撮影はなかった。ただ皆、怪人の面をつけて、商店街を全速力で走るだけのシーンがえんえん続くものだったが、本当に楽しかった。「俺は今怪人になって猟奇に走っている」という現実に酔った。自分にとってのユートピアはここだ、と思った。ほんの一瞬だったが、その時、たしかにたましいが救われたような気がしたのである。宗教なんていらなかった。

川崎ゆきお原画展パンフレット(編集発行:Super ! 、発売:恵文社 1997年)


Last updated: March 12 , 2001