Improvised Music from Japan / Seiichi Yamamoto / Information in Japanese

書評:町田康全歌詩集 1977〜1997

山本精一

 パンク歌手の叫ぶコトバというものは、何を置いてもまず、全力で虚空へ向けて放たれねばならない。コトバは光速で消滅する直前、あらゆる外皮を剥ぎ取られ、一切の不純物を払拭され、赤裸々な中核のみを発光させてゆく、そういう所業でなければならない。

 ここにさらされた町田康氏の歌詩集は、紛れもない "パンクの詩" の怪しい残像である。初期の精神の暴発そのままの直情的な作、中期のダダイスティックな諸作、近年のポエトリーリーディング風な、より「詩」の体裁が強まった作品群に通底するものは、徹底的な な不様、不躾、不細工、あるいは情け容赦の無い俗悪さである。けれども、同時にそれら全てのマイナスをかけ合せることによって、詩は急遽翻転して劇的に聖性を帯びてゆく。  ここで選ばれるコトバのひとつひとつは、見事に素晴しく即物的であったり、やけっぱちであったり、やぶれかぶれであったりするものだが、それらが音曲と相まって、氏の口から放射された瞬間、コトバは自らの意味性を、いったん清算され、みるみるうちに異化され、あたらしい顔かたちを付与されるや、即座に聴き手の「闇」の中へかき消える。同語反復が多用されるのは、リズムと旋律に相乗させるカタチで成立する「歌詩」にあっては常套といってよいレトリックだが、その執拗なまでの反復は、最早リフレインなどという悠長なものを超えて、あたかも錆びたネジの如くにジワジワとくい込んでくる。氏のコトバは生来、音楽そのものである。

春子の方が
春子の方が
春子の方が
春子の方が

悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い
悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い

(春子の方がそら悪い(抄))

 もうこの様な詩にあっては、「春子」など、到底どうだってよいのである。「春子」の素姓を詮索してみたところで、空しく不毛な結果が用意される。「宇宙人」だろうが「平清盛」だろうが、それらは全て「春子」と同意だ。詩人の私的な心情吐露であるやらないやら、そういったこともおそらくは、瑣末な事柄に過ぎない。注目すべきは、親の仇の如く「春子の方が悪い」と繰り返し唱えられるうちに、この無内容なコトバあそびに過ぎぬと思える詩が、どんどん変容され、重さを増し、豊潤なイメージを伴って立ち現われてくることである。「悪い悪い」と連呼される末尾は、平坦にではなく、だんだん深みに嵌ってゆくように歌われるべきところだ。氏の特異な声による演出も効果一流で、このあたり町田康(当時「町蔵」)の真骨頂だろう。しかしながら、こうしたニュアンスは、活字媒体を通してのみによっては十分に伝えることが困難なのが残念だ。

 初期の詩には、シンプルな短い、一見不条理極まりないものが多い。しかしながら、それらの唐突なコトバのつぶては、不思議なほど長いあいだ脳髄の底へ澱となって残る。歌われる内容が、より無意味で空虚なほど、その度合は高まり、有効である。
 これをダダと呼ぶは的はずれだろうか?

うーんインコが欲しいなあ

儂は悪い
だから豚を殺したりする
それともあの猫の顔を送ろうか
コンガのビートに乗せまして
通り道はいつも青いが
インコはバランスを破壊した
インコの悲しみは
どぶ風に吹かれてひらひらしている

(コンガを叩いたインコを殺した男(抄))
 何も悪くはない。まったくもって悪くはない。もとより善悪の是非を問うものなどではない。ならば、倫理そのものの胸ぐらを掴んでネジ上げている塩梅といえば近いだろうか?当然ながら、そのような読みも見当違いだ。そこに有るものは圧倒的な「虚空への祈り」である。

 生苦を業とし、徹頭徹尾正体不明な自己を抱えて迷走する「ヒト」であることへの、本能的な不安、怖れ、愛憎。それらに対する、迎撃弾としての、救済の術としての虚空。絶えず敗戦を想定しての戦いを挑み、結果敗走を重ね、絶望に次ぐ絶望の果てに、否、その果てにおいてこそ、満ちてくる潮、浮上する楽土というものがある。そこは虚無ではない、ましてや悟りなどであるはずのない場所。詩はまさにその場所へ向けて欣求するのである。そこには渇ききった眼差しはない。あっけらかんとした奇妙な楽天と、カッと見開かれた巨大な眼光を見るのみである。

完全な無能力者
或いは阿呆
行きつ戻りつを繰り返し
豚の如くに食らい吐く
エイエイエイと手放しで哭き
愚劣なダンスを試みる
行きつ戻りつを繰り返したり

スローモーションで動く通行人を殺害し
きりきり暗渠を通り抜け
自転軍を買い釣り銭を受け取り

(ゴー&バック(抄))

 阿呆は情けない。どうしようもない。どうしてよいのか分らぬ。とはいえ死ぬことも適わない。とりあえず食わねばならない。からだを用いて何かせねばならぬ。それで切羽詰って事を起しては、猛烈に不細工な状況に陥り、一層難渋する。この繰り返しである。人は全てこのザマである。それでも食わねばならない。うどんを、ししゃもを、ウズラを、食らい尽さねばならぬ。テキーラを飲んでヘベれけに酔わねば、もうどうしようもないのである。前途に未来はないのである。烏滸の沙汰を恥じる寸暇もないのである。

 「町田康全歌詩集」は、如何様に読むことも可能だ。仏典、聖典、あるいはたんに幻想詩集としても読める。これを到底「文学」とは思われぬという向きもあるに違いないが、それもまた正解だろう。パンク詩というのはそういうものだ。おのれの精神の種子の、そのまた中にひそむ「観音様」を吐き出して見せる、ギリギリの行為なのだが、それを拝むや否やは、聴き手読み手の裁量に委ねられている。

文學界 2001年7月号


Last updated: July 7, 2001