こいつ何考えてんだ? と思わせる人がいる。否定的な意味でも肯定的な意味でも、こういう人というのは記憶の中に楔となって残る。残ってしまう。確かにボアダムズ、及びそのメンバーたちはこういう人たちである。それぞれがそれぞれに楔であるわけだが、とりわけ "おおおおっ" と人々を何度ものけぞらせ、? を何十個も発生させ、しまいには言葉を失わせるのだが、なんとなく心が軽やかになっているような気にさせてもくれるのが山本精一である。想い出波止場での活動も多くの人に知られている。プログレ好きからパンクやミュージカル好きにまで、同時に愛されている。世界得体の知れないバンド・ベスト10入り確実の想い出波止場は、どこにでもあるというバンドではない。山本精一も、どこにでもいるという人ではない。いったい全体どんな道を山本は歩んできたのであろう。そして何を考えているのであろう。テクニシャンか破壊の徒が仙人かお人好しか。よくわからないことは本当に尊くて気持いい、ということを山本精一は身を持って示している。勇気ある者である。
一番最初に買ったレコードって何だったんですか。自分のお金で。
それは、エーっと、ブルー・コメッツや。「マリアの泉」。これがメチャメチャ好きでね。GS好きでしたからね、従兄弟の人が結構年上で、その人の影響受けたかもしれませんね、小学生のころに。当時その人が大学生ぐらいなんで、変なフォーク、プロテスト・ソングとか、聴いてましたね。岡林(信康)とか高田渡とか。同じクラスにやっぱり兄貴の影響でそういうの好きなやつがおって、学校でふたりで歌って。「自衛隊に入ろう」とか「がいこつの唄」とか、小学5年生の男子が。思想性とか全然わからへんけど、おもしろいじゃないですか。単にコミック・ソングみたいな感じで。なんじゃこりゃあって思って。
洋楽のほうは普通中学生ぐらいで入っていきますけど、どうでした?
それもその小学校5年、69年ごろなんですよ。テレビでやってたでしょ、アニメで、アーチーズ。あれにハマってね。女の子がふたりいて、楽しいじゃないですか。アーチーズみたいなバンドやりたいな、と思って。学校で放課後にやったりするのなんか、ああアメリカやなあと思いましたよ。アニメの中でダンスの勉強したりするの、真似したりね。だから俺「シュガー・シュガー」メチャ好きでね。甘ったるい、超キャンディ・ポップみたいの。何も考えてないじゃないですか、あれ。 それと中学入ってからだとT・レックスですかね。71年ぐらい。テレビて演ってたのを見て、わあカッコエエなあと思って。同んなじリフでね、ずっと通す。非常にカッコイイ。しかもメイクしてる。男が。やっぱこれしかないんちゃうか、と(笑)。
バンド活動のほうはどうだったんですか?
本当の最初は、フォークル(フォーク・クルセダース)のあれ(「帰って来たヨッパライ」)を歌うグループで。小学校5年のときにやっぱり。あれが好きで好きで。でも楽器を学校に持っていけないし、弾けないし。だから口で音まねして、みんなで歌ってましたけど。
具体的にバンドを作ろうと思ったんは、71年ごろでしたね。中学生になったすぐぐらいでもうやってましたね。フォークの流れを俺は引き継いでて、フォークルみたいなバンドやりたかったんですけど。そのころはフォーク全盛でしたから、フォーク・バンド作ろうってメンバーを募ったんですけど、まだ周りは全然目覚めてないんで。集まって来たやつは、キャロルやりたいヤンキーみたいのばっかりになっちゃって(笑)。キャロルの亜流みたいのとか、大阪ですからファニー・カンパニーやろう、とかいうことになって、「じゃあ抜ける」と。
そうこうしているうちに深夜放送にのめり込んでいきまして。深夜放送にはすごい影響受けましたね。「深夜放送ファン」っていう雑誌が出ていて(注・自由国民社から「新譜ジャーナル」の別冊として出ていた)DJはスターでしたねえ。
誰が好きだったんですか?
俺は名古屋の放送が好きだったんですよ。名古屋のほうが大阪よりおもしろかったんですよ。つボイノリオさんとか、その周辺の人たちがメチャおもしろかったんですよ、71年ごろ。変態フォークでね、ゴッズ(注・GODZ。ニューヨークの4人組。66 〜74年まで活動していたフォーク・ロックの極北。ESPから4作のアルバムを発表した。そのすべてと未発表曲2作が、ドイツのZYXミュージックによってCD化されている。ロウ・ファイの源流のひとつ)みたいなバンドがあったんですよ。カム・トゥギャザーっていうんですけどね。凄いよ、これ。10人編成ぐらいで、ドラム缶を足で蹴飛ばす音がリズムなんです。ドーン、ドーンって。ウッド・べ一ス3人にバンジョーっていうメチャクチャな編成で。今のキャロライナーみたいなことやってたんですよ。それをラジオて聴いて強烈なショック受けました。名古屋アバンギャルド。岐阜のバンドやったと思う。カントリーの流れにあるバンドなんですけど、替え歌をやるんですよ、ほんまにしょ一もないんですわ、それが。全然取り上げられないでしょ雑誌とかで、このバンド。でも俺と同い歳ぐらいの名古屋の奴にこいつらの話すると泣きますけどね(笑)。
それは基礎としては大きい存在ですね。
はい。それはでっかい。あと八事(やごと)裏山フォーク・オーケストラとか。これはフォークなんですけどサックスが入ってるんですよ、フリー・ジャズ系の。曲は歌謡曲で、場末のキャバレー・ミュージックみたいなのをフォーク仕立てでやるんですけど。泣きのサックスが入ってて、それが途中から狂うのね。ブピーっと。
今あったらいいのにね。
今あったら絶対ウケると思う(笑)。東京でも当時、一時期ちょっと話題になって。バイタリス・フォーク・ビレッジで1位か2位になりましたね。(吉田)拓郎が凄く押してね。ちょっとまりちゃんズの系統に近いかもしれない。あと金玉(こんぎょく)(笑)。
兄弟なんだよね、あれ。突然段ボールみたい。
金玉って書いてある法被着てね(笑)。あのころのバカ・フォーク、なんだったんでしょうね、あれは(笑)。深夜にこんなバカらしい世界があるのかと思いましたね。
夜は、そういう深夜番組に浸る日々だったわけですが、昼間は何やってたんですか?
昼間は漫画描きまくり(笑)。漫画はもう物心ついたときからずっとですから、大好きで。
バンド活動のほうはキャロルもどき以後どうなったんですか?
また作ったんですよ、中学校時代に。ヘルメッツっていうんですけどね(笑)。これはフォーク。こんどこそフォークやろうと思って。そのころはロックは練習場所がなかったんですよ。だから必要的にフォークになるんですよ。それにフォークのほうが進んでたし、当時は。で、ちょっと変わったやつやろうってことになって、クラスの奴に聞いたんですけど。それで、遠藤賢司好きな奴と高田渡好きな奴と、はっぴいえんど好きな奴がとりあえず集って。俺は歌とギターでしたね。そいつらでオリジナル曲作って失敗したり、名古屋のアングラ・フォークとかもカヴァーしたりしてましたね。そのころのテープありますよ、うちに。
それはいいなあ。聴きたいねえ。
今聴くと、全然変わんないてすよ、今と(笑)。ほんとに、変わらへん、家の鉄ハシゴを叩いたりとかしとって。その連中と中2の春(72年)に「春一番コンサート」に行ったんですよ。これにもう凄い衝撃を受けたんですよ。あの年がなにしろ一番すごくて、出演者が、はっびいえんど、はちみつぱい、小坂忠とフォージョー・ハーフが出て、遠藤賢司、高田渡にごまのはえまで出たんですよ。もう出てくる音楽全部が凄くて。もの凄いことが世の中では起きてるな、と、思って。バンドやりたいな、ロックやりたいな、と思ったんですよ。はちみつぱいがすごく好きになって。でもまぁ家でね、そういうような曲作ったりしてたんですけど、失敗してね(笑)。歌詞が全然できない。子供でしたから。春一番の前に三上寛さん見に行ったんですけど、それもびっくりしましたね。凄かったんですけど、正直言って、よくわからなかった。そのときはさすがに。歌詞が灘しいのと、ここまでメチャクチャにしていいのかなって(笑)、そういう、思いがあって、子供心に。でも逆に、中学生のガキがね、そういうの聴きに行ってるっていう状況は凄かったですよね、やっぱり。ちょっと前の時代の雰囲気をまだそのころは引きずってたんで、サイケデリックみたいなのが残ってたし。まだニューミュージックもなかったし。やばいのもそのままラジオで流してましたし。だからあのころの変態のフォークとかラジオとか、そういうのの流れって、ほぶらきんの連中とかJOJO(広重)さんとかも影響受けてたわけで、つながるんですよね。
それでバンドのほうはどうなったんですか。
その中学生のやつは中3の文化祭みたいなやつに出て、全然ウケなくて、失敗して自然消滅して(笑)。それで俺は中学浪人になりまして。その中学浪人の時代は、何もすることがなくて。家で一日中悶々と漫画を描く日々で(笑)。「ガロ」に投稿しようと思って。川崎(ゆきお)さんの漫画見て、「これなら俺にも絶対描ける」と思って、毎回深夜放送聴きながら漫画描いてたんですけど、結局だめでしたね。投稿はしませんでしたね。「ガロ」ってあの頃のフォークに通じるものがありましたよね。臭いっていうか。そのせいもあったと思いますけど。
高校時代ってもうパンクとかいませんでした?
高校時代はまだですねえ。高校、ふたつ行ったんですけど、ふたつめのほうがおもしろくて。ちょっと変わった学校でしたけど、学内にバンドが無数にあるんですよ。その時代に出会ったやつとの関係を今でも引きずってますね。いろんなバンドを渡り歩いたっていうか。リトル・フィートのカヴァーとかやったりしてましたね。
おませな高校生がいっぱいいたんですね。
そうそうそう。ちょっと変わったね、ポール・コゾフとかやってるやつがいたり。スタジオに入って練習するようになったのも、高校に入ってからですね。メタルやってるやつとか多かったですけど、俺は加藤和彦が好きでしたね。もとがフォークルですから。一貫してあこがれてましたね、あの人には。カッコよかったですよ。ミカ・バンドのときにもなんでいきなりこんな(髪を緑やオレンジに染めてグラマラスになった)ことするんやろう、と思いました。何をしてるんやろ、変わった人やな。と。結局、高校時代は渋いのばっかり聴いたり演ったりしてましたね。スタッフとか、メンバーの中にそういうやつが多かったんで。後にみんなフュージョンに行ってしまいましたけど、テクニック志向のやつはやっぱりフュージョンに行く傾向がありましたからね。それで学祭のときにそのリトル・フィートのカヴァーやってるバンドで出たんですけど、やっぱり大失敗して(笑)。やっぱりウケなあかんのちゃうかなと思ったりして。それでなんの脈絡もなく「前略おふくろ様のテーマ」とかやったりしてたんですけど(大笑)、「太陽にほえろのテーマ」とか(笑)やりましたけど、それでも全然ウケなくて。
そのときのテープないんですか?
あります(笑)。あれは爆笑です。まったく脈絡がない。他のメンバーは渋め、俺もそういうの聴いてたんですけど、底に流れてるものが違うんで、「全体渋め、ギターだけが変」っていうものでしたね。ギターのスタイルは今と全然変わらないんですよ。パンクっていう意識はまったくないんです、ただメチャクチャやりたいっていう。
エレキはいつごろ買ったんですか?
高一のときかなあ、それまではアコギの中にマイクを入れてやってたんですけど。
最初買ったのは何ですか、エレキは。
ストラトです。最初から。ずっとストラト。あれは、え一と誰やったかな……、あ、ジェフ・ベックか。ジェフ・ベックの写真見て。俺ジェフ・ベック聴いたことなかったんですけど、写真がやたらカッコよかったから。白のストラト。「ワイアード」のころ。あとでジェフ・ベックは「ワイアード」だけは聴いて、凄いなあ、こんなん俺には絶対できへんなと、思いましたけど。
渋めの高校時代の後はどうなったんでしょう。
高校3年のときにパンクが出て来るんですけど、当時は高校生でも「なんじゃこりゃ。おもしろくない」っていう感じでしたね。俺はでもジョン・ライドンは凄くカッコイイなとも思いましたけど。やろうとは思わなかったですけど。高校出てまた浪人するんですけど。そのころにかつての仲間たちはパンクというよりニュー・ウェイヴに走りだしたんですけど、僕はまだフォークの影を引きずってて。(笑)。ひとりで楽器屋の店頭で歌ったりしてましたけど。そういう時期があって、それで79年にいよいよパンクっていうか、なんかよくわからないけどメチャクチャできるんやな、と、思って新しくバンドを作ったんですけど。高校のときの目覚めた連中を集めてレコードを聴いて研究っていうか、そういう日々がまず続きまして。とりあえずスペシャルズやろう、とか言い出して、よしと思ってたところに、ホップ・グループが出てきたんです。これが決定的なものになりまして。「これしかないやないか。何してもいいんやな」と。曲の構成なんかもうメチャクチャで。「曲なんかなくてもええんちゃう?」「いや、ないとあかんぞ」とか話合ったりしまして。で、ポップ・グループと同時期ぐらいに、ジャズのほうですけど生活向上委員会を京大の西部講堂で見て、これも凄い、と。フリー・ジャズのメチャクチャな部分とポップ・グループを合体させて、ほんまにメチャクチャなものをやろう、ということになったんです。「宣言を出そう」とか言い出して、まず形から入ろうとしたんですけど、ビラ作ったりして。" フリー・ロック宣言" とか書きました。それで大阪でライブやったんです。
なんていう名前のバンドだったんですか。
それは、深海漁業団というんですよ(笑)。
なんか想い出波止場の「水中ジョー」に通じるものがありますね。
海っていうのが一貫して流れてるんですね。
このバンドは何人編成だったんですか?
これは3人ですね。最大4人ぐらいやったかな。今オメガ・サウンドっていうスタジオやってる小谷(哲也)と、タイコで後にのいずんずりに入る川上ってやつと、僕と。あとはそのときそのときで、いろんな奴が入ってきて歌うって感じ。
そのころは大阪ではいろいろなバンドが、いろいろやってましたよね?
そうですね。でも僕らは他とはまったく連動してなかったんですよ。もうメチャクチャなんで(笑)。まだお互いがよくわからなかったんですよ、バンド同士。それぞれ別個に動いていた時期なんで。名前は知ってたんですけど、まったく僕は面識とかなかったですね。アルケミー系の人とか、あのへんの人たちとつながりができてくるのって85、86年ぐらいなんですよ。この深海漁業団は、ライブハウスが当時ほとんど大阪になかったんで公民館とかフリースペースを借りてやってましたけど、普通の客が多いんでいろんな目にあいましたね。カンが飛んできたり、やめろ一っとか怒られたり。
一回のステージって何分ぐらいやってたんですか?
とりあえず弦が全部なくなるまで。もう速攻でなくなるんですよ。20分ぐらいがいいところで。体力がいまの10倍ぐらいあったんで、ドドドドドーッと怒濤の演奏で、他のバンドがタイバンするのもイヤがられましてね。「機材がだめになる」って言われて。ヴォーカルでね(レピッシュの)上田現が入ったことありましたね。1回だけ。あのときは凄かったですよ。本人も覚えてないと思いますけど。でもあんまりこれやってると出るとこもないし、どうなんかなあ、と思い始めまして、まぁあの当時、非常階段なんかとやってたらよかったかもしれませんけどね。知ってたらたぶん交わっていたと思うんですけど、知らなかったですからねえ。僕らは演奏でどこまで破綻できるかってことを追及してたんだけど、演奏で破綻する前に楽器が破綻してしまいましたね、ことごとく。結局活動できなくなって自然消滅してしまったんですけど、81年ぐらいまでやってたと思います。それでも2年はやってたわけですね。
大学は行ったんですか。
行きましたよ。しかし、これがまた、大学時代は完全に寝てるだけ、というもので、一挙に疲れが出たっていうか。79年に入って、2年間深海漁業団やって、あとの3年間はまるっきり完全に寝たきり大学生でしたね。行ってた大学もまったくおもしろくなかったし。
その後音楽シーンに復帰するのはいつですか?
84、85年ですかねえ。妹がイヴェンターみたいなことを始めたんで、それを手伝うみたいな感じ。久々にライヴ見に行ったんですよ。妹のつきそいみたいな感じで。そのとき出てきたのが高野(寛)くんがいたソフトだったんですけど。ポップなんだけど凄く変なこともやってたんですよ。これはおもしろいなあと思って。またライヴとかもいろいろ見にいこうかなあ、と思うようになったんですよ。そのころにはライブハウスもずいぶんできてましたから。僕が寝ている間にできてたんですよ(笑)。それで川上がのいずんずりに入ったんで見に行ったりして、そこでいろいろつながりができるようになったんで、イヴェントの企画とかしようかなあと思いまして。そのころに今の関係者と知り合ったんですわ。ヒラとか、アマリリスとか、山塚も見に来たりしてたし。そうこうしてるうちにエッグ・プラントが出来て、大阪のシーンがかたまっていったんですね。僕もエッグに出入りするようになるんですけど、87年ぐらいやったかな、そのやっていたイヴェント企画も破綻したんですね。そのへんで一度シーン自体も閉じてるんですよ、大阪の場合。その後アルケミーのあの怒濤の攻撃が始まるわけですよ。
想い出波止場はどうしてできたんですか?
最初は、ボアダムズ企画のライブが京都の「どん底ハウス」であってね。そのとき各メンバーのソロ活動ということでやろうってことになって、それでできたんですけど。UFO or DIE、花電車、想い出波止場。ゲストが赤星で。だからその時は赤星のギターの人にも入ってもらってたんですよ。
その時は何を狙ってたんですか?
他のユニットがボアっぽい感じでやってたんで、シャレっていうか、まったく逆でわざとフォーク・ロックっぽい感じでやろうっていうことでしたね。演奏自体はギャーっていうものだったんですけど、歌はフォーク・ロックみたいな感じでしたね。だからそのへんの流れっていうのは残ってるんですよね、昔からずっと。
そうですよね。今までの話でわかったことというのは、14歳のときから変わってないっていうことですね。
はい。全然変わってないですね。一貫してメチャクチャな歌ものを主体に、ハチャメチャな演奏を、しかもあまりメチャクチャでない感じでやるっていうことでしょうか。
そうはおっしゃいますが、これでも十分ハチャメチャだと思いますけど。
そうですか。
山本さんが主体になってやってきたものを並べて聴いてみると、案外叫んでるものが少ないんですよね。でも叫んでいるものよリわかリにくいんですよ、これが。かといってグチャグチャな感じはしないんですよ。ちゃんと音とかサウンドに遠近とかメリハリがあって、その遠近の中でメチャクチャになっている。そういう意味では聴きやすいんですよね。
ああ、そんな感じだと思います。だから自分では、何がやりたいのかようわからんのですよ。それを言っているような感じなんですよ。「何が俺はやりたいんやろう」ということをずっと演っているんじゃないか。「ほんまは何がやりたいんかな」ということを考えつづけてるんです。
自問自答を繰りかえしてるだけなんですね。
そうやね。確かにそのとおりだと思います。何かに対して怒ってるんですけど(笑)、何に対して怒っているのかさっぱりわかんないんですよ。
それでバンカラになっちゃうんですかねぇ、気分的にね。
確かに気分的にはね。バンカラ。う一ん、バンカラっていうのはわかるような、ようわからんようなものですねえ。なんやろな。
バンカラっていうのは漠然としてるんですよね、イメージが。バンカラって言われてああそうかって思うけど、それを言葉で説明するのは難しいですよね。
世界的にバンカラっていうのはあるんですかね。
俺の知る限りインドにはありません。韓国にはあリます。
そうですか。韓国にはありますか。
はい。韓国は国がバンカラだから(笑)。質実剛健なんだけど、やってることはメチャクチャっていうところが。それは想い出波止場及び山本精一もそうですよね。
結構情けなかったりしてね(笑)。常に「これでええんかなあ」とか、「こんなことやってええんかなあ」とか。やってるときはね「これしかない」と思ってるんですよね。
やり終ると、でも……。
もの凄い虚しさがねえ(大笑)。虚無感のようなものがずん、と。「俺はなんなんや」とか「どっから来てどこに行くんだろう」とか。なんやろ。それがあるからまたやってしまうんですよ。
だから終らないんですよね。
強力に表現したいようなものがあるような気がするんやけど。結局撫でて終わる。あ、そういえば俺、高校のときに四国ヘツチノコ探しに行く探検隊を結成したことがあるんですよ(大笑)。すっごい盛り上がって、俺は。でも現地で仲間割れしちゃって。なんかそんなことばっかりやりつづけているんですよ、ほんとに。