Improvised Music from Japan / Seiichi Yamamoto / Information in Japanese

僕にとってFBIは

山本精一

 毎秋かならず起きる事件みたいなもので、その事件に、自ら関与すること、そして聴衆とともに、その場の雰囲気もろともしっかりと目撃すること、に意味が有るとおもっている。あのジーベック・ホールで、しでかされる様々な行為のすべてに、絶えずなんらかの刺激を受けてきた。あの場所には視覚や聴覚だけでは、到底とらえることができない何かがあった。例え、そこに音が鳴ってなくとも、姿が見えなくても、確かに事件は成立したし、空気はどんどん変化した。入口で売られていた焼きおにぎりにさえ確かに意図して表層を剥ぎ取られ、みるみるうちに異化してゆく日常をかいま見ることができた。

 FBIはフェスと銘打たれてはいるものの、単なる「まつり」ではない。そこには熱狂も陶酔もあるけれど、同時に寂蓼や弛緩や、虚無さえも存在した。決して一点にのみ焦点が定められた祝祭の場では在り得なかった。演者と聴衆、互いの間の明確な境界が無いあの場にあっては、知覚可能なものすべて「まつり」のエレメントと成り得たが、ひとりひとりが取りおこなう行為あるいは、聴き取りの過程で起る(起される)様々な意識の変容、それこそがなによりもまず重要な意味を持って立ち現れた。

 即興演奏における「イノセンシズム」というものは、果たして可能なのか? 否、そもそも存在し得るものなのか? ヒトが行うあらゆる行為は、すべて作意や意図から逃れる術をもたない。赤ん坊の持つ無作為の地点に、我々は立ち還ることが、最早できない。

 我々にでき得ることがあるとするなら、むしろただひたすら作意し、意図し、恣意性にこそ、とことんこだわることなのではないか? そして、そのようにして行われた行為の果てに、なにやら得体の知れぬモノ、どうしようもなく表出されてしまうモノ、意図せざるモノが立ち現れる瞬間、まさにその一瞬の中でこそ、「イノセンス」の朧げな像を捉えられるのかもしれない。

 自分は何故音を出すのか? 即興演奏とはなんなのか? 私にはまだ良く分からない。常に葛藤と、懐疑のせめぎあいのなかで演奏をしている。これははたして面白いのか? 面白く無けれぱならないのか? 面白い? 面白いとはなにか? そういうことを考える必要は無いのか? 考えないといけないのか? そんなもの超越したところで音をだせるべきなのか? 超越? 超越とはなんだ? 人生とはなんだ?

 FBIには所謂「アート臭さ」が希薄である。これをもって他の類似のイヴェントとは一線を画すものだ。ここに集う海千山千のパフォーマーと、有象無象の聴衆、両者の醸し出す、独特の雰囲気が、安易に「嗜好品」としてのアートを許容することを好しとしないせいだろう。そしてそのことが、私をして、毎年ジーベックホールヘ足を向かわせる、大きな要因になっているのである。

5th Festival Beyond Innocence 2000 公式ハンドブック
あなたのFBI目撃証言#47


Last updated: March 10, 2001