副島輝人
『文化最前線』最後の執筆をするに当たり、20世紀の芸術前衛の歴史を振り返ってみることにしたい。今世紀も、後3年足らずなのだ。
それはイタリアとロシアで、ほぼ同じ頃に発火した未来派で幕を開ける。19世紀的様式美を粉砕しようとする反逆の焔(ほのお)であり、時空間の圧縮を目論(もくろ)むものだった。言語の体系と意味性を剥奪(はくだつ)しようとしたザーウミ派。あらゆる現象との関係を拒絶して白いカンバスの中に黒い四角形のみを書き込んで、究極の美術宣告を行ったマレーヴィチのスプレマティズム―この一支流は、モンドリアンの純粋抽象へと受け継がれていく。そしてルイジ・ルッソロの創作した騒音楽器イントナルモリは、負の美意識を志向しながら、今日のノイズ・ミュージックの起点となった。ダダイズムからシュールリアリズムの幻想へ。J・ジョイスやM・プルーストは記憶と内的意識の毛細血管に潜り込む。こうした推移の中には、知の極限への熱いまなざしと、テクノロジー賛美も仄(ほの)見える。
前世紀の巨星、ドストエフスキーの人間洞察や、ルノアールの官能的描写はどこに行ってしまったのか。20世紀前衛は、大脳の知と肉体の生とが乖離(かいり)する道を、あえて突き進んで来たようだ。ジョン・ケージのチャンス・オペレーションも、肉体を抽象化することによって成立する。
私自身は前衛を支持し続けてきた。しかし極限の知への疾走の背後では、微(かす)かに人間否定の響きが鳴っていることも知っている。そのことは、同時代性の中で、ホロコースト、原爆、コンピューターによるロボットの操作といった現象に共鳴している。
20世紀に入って、映画、ジャズが新しいジャンルとして台頭してきた。実際1960〜70年は、ジャン・リュック・ゴダールとジョン・コルトレーンの時代だった。それに日本で生まれた舞踏や、M・ベジャール等の肉体表現が、知と肉を繋(つな)ぐ<血>となることを、明日に向けての期待としている。
(『公明新聞』1998年3月1日コラム「文化最前線」に掲載)