文:齋藤徹
ロデスの手紙、そうアントナン・アルトーが収監されていたロデスだ。1995年、アヴィニオン郊外で一緒にコラボレーション(ミシェル・ドネダ、アラン・ジュール、バール・フィリップス、齋藤徹が参加。アラン・ジュールの美術展が行われていた画廊でのセッション)をした劇作家・演出家・俳優のミシェル・マテューがロデスの街のアーティスト・イン・レジデンスをしている。インプロヴィゼーションを最重要の要素にしている劇団テアトロ・ドゥ・アクト 2を率いている。この時期はアントナン・アルトーを特集した詩のフェスティヴァルが行われていた。
ドネダと当地に到着後、アルトーのいた精神病院跡を訪ねた。ここにいたのだ。ここで電気ショック療法を受け、ジャン・デュビュッフェの来訪を受け、数々の手紙を書き、自らの狂気と他者と戦っていたのだ(「ロデースからの手紙」アントナン・アルトー著作集?、白水社)。劇団の面々そして、トゥールーズのラ・フリブスト(ドネダ、ル・カン・ニンらが作っている集団)から来た録音のピエール=オリビエ・ブーランと会い、翌日からのセッションの話を聞く。全てが初めて聞く話だ。郊外に借りてある二軒の家での共同生活が始まった。翌朝、とんでもない連絡が入る。ミッシェル・ドネダの母上が亡くなったのだ。言葉を失ったミッシェル。しかし予定はどんどん進行する。彼も演奏の優先を決意しここに留まる。
まず、精神病院跡地からセッションが始まる。跡地に役者達が点在し、アルトーの手紙の朗読をそれぞれが始める。何人かは回廊に立ち、後ろ向きに朗読を続ける。私とドネダも場所を移動しながら演奏を進める。遠巻きにフェスティヴァルに参加している詩人達、聴衆が見守る。アルトーの声を模している役者もいる。うずたかく積まれている廃物、謎めいた小さな抜け穴などをフルに利用した。
一段落つくと、次の場所(公園)へ移動だ。聴衆・詩人達はゆっくり先導者のあとを歩いて行く。誰も次にどこで何が行われるのか知らない。役者とミュージシャンはトラックで一足先回りをする。公園では、ミッシェル・マテューと一人のベテラン女優がベンチの上でパフォーマンスをする。そこから70〜80メートル離れたところにあるキオスク(円形の舞台、フランスでは伝統的に公園のキオスクで音楽が行われていて、子供達に生の音楽に触れる機会を与えている。ミッシェルも青年期、キオスクで随分演奏したらしい。)でミッシェルと私が演奏をする。聴衆からは見えず、遠くから風に乗って聞こえてくるという演出だ。ここでは、私は韓国の銅鑼を演奏した。
ひとしきりやった後、次はカテドラルへ移動する。なんだこの教会は! ヨーロッパの教会だからもちろん街の中心にあるのだが、窓というものが、ほとんど見えない。スリットのような切り込みがあるだけ。ここから武器を出し戦ったのだという。ほとんど要塞のような背の高い黒い直線的な教会だ。中でアルトーのカトリック批判のくだりを役者が朗読。私、ミッシェルも中を自由に移動しながらの演奏。ここでの録音がトラック1 に使われているわけだ。だんだんと雰囲気が高揚してきている。と、教会の横の出口へ聴衆を誘導し、そこで役者達はメチャクチャな歌を歌い、ガラスを割り、私達の演奏に参加してくる。街の中央なので、当然、普通の市民生活が行われている。突然の異物・強烈なオルタナティヴ。何事もないように通り過ぎる車や人々。さすがに個人主義の進んだフランスだ。
次は近くの小さな庭でごく少数の役者だけのパフォーマンス。演技しない役者、私とミッシェルは一足先に最終地に移動する。広大な邸宅の庭。幅10メートル高さ4メートル奥行き3メートルくらいの窪みが5つ並んであり、そこに5人の役者がそれぞれの趣向を凝らし、即興パフォーマンスを自由に展開している。ドアと旅行鞄をしつらえる人、藁を積み重ねる人、自分と等身大の人形を仕込む人、精神障害者の部屋を作る人、棒を身体につける人。私とミッシェルは広大な敷地を移動しながら、それぞれの役者にからみつつ参加する。最後にミッシェル・マテューが長い朗読をして、セッションが終わった。聴衆からは暖かい拍手が長く長く続いた。
一休みすると、すぐ夜の演奏会の準備にかからなくてはならない。王立チャペルで、詩の会の後、ミッシェルとのデュオ・コンサートが企画されている。敬虔なカトリック信者だったミッシェルの母親(マリー・テレーズさん)の亡くなった日。ミッシェルはチャペルや教会でのコンサートは初めてだという。会場はスゴイ顔の人ばかり。個性的というか、ハッキリしたと言うか、知的レベルの高そうな顔ばかりだ。ピエール=オリビエ・ブーランが素早く録音のセッティングをし、いつものように2人で演奏 を始めた。一時間強、一曲の即興演奏。トラック6 にその抜粋が収められている。教会は、どこでも音響がとても良い。説教や、オルガンの音が、上から覆い包むようになっているのだろう。気持ちよく演奏できる。いつもならそろそろ終わる雰囲気になってもミッシェルは演奏を止めない。母親へのメッセージだったのだろうか。
イタリアからブドウ畑の労働力として移民してきたミッシェル家。様々な確執があった父親との関係。(このあたりはあまりに個人的すぎるのでこのへんで止めます。)生き方として音を出すことを選んだ点が、私とミッシェルの共通項だ。職業として音楽家を選んだのではない。プロを止めようか? という会話を何回もした。プロとしてお金を媒介としての演奏が時として、納得できない事が起き、辛い思いをする。若いときは、それをかえってバネにして利用できる余裕があったし、自分のことだけをしていたら会えない人にも会えた。東京での私は、出会いこそを自分の音楽上のエポックとしてこういう生活を続けてこられたと言っても良い。それでも、辛いことはなるべく避けたい気になっている。残りの音楽時間を考えると辛い思いをしている時間や気持ちが惜しい。もっとやるべき事があるのではないかと思ってしまう。そんなものは幻想だぜ、たんたんと目の前のことをこなしていくだけでもありがたい事じゃないか、という声も確かに聞こえてくるのだが…。
ミッシェルは、最近、より匿名性に傾きつつある。楽器を上手に演奏することをわざと避けている。一音聴けば、誰の音かが分かると言うのが、良しとされてきた。他人との差別化が価値を生み、金銭に置き換えられてきたと言っていい。それを、止めようじゃないか、という考え方がミッシェルの中に確実に芽生えている。勿論、演奏の喜び、充実感、自己実現感などは、簡単に捨てられるものではないだろう。その相反した感覚の中で彼が演奏をしていると言うのが、よく分かった。優れた演奏家が多く、音楽が文化として歴史的にも確立しているヨーロッパだからと言う点もあるだろう。いろいろな飽和状態、閉塞感からインプロヴィゼーションが求められている状態も見て取れる。ヨーロッパでは楽器を上手に演奏する事は、いわば当たり前。トゥールでのバール・フィリップスのワークショップに集まった若いコントラバス奏者のうまいこと! なのに彼らはプロになることは諦めている、ムリだという。ナンシー、ミュージック・アクション・フェスティヴァルでの私のマスター・クラスに集まった人々は、プロ・ミュージシャン、音楽教師、楽器を始めたばかりの人と多様だったが、求める気持ちは半端でない。ニッポンのインプロヴァイザーが何を思って、何をしているのか、何をしたいのか、強烈に問うてくる。
日本の「音響系」がヨーロッパでブームになっている理由の一つは、長期間訓練しなければならない「普通の」楽器習得に対するアンチテーゼもあるのだろう。長年やっていてもものになるかどうかも分からず、良い楽器は高価だし、ムチャクチャうまい人がいくらでもいる。ムチャクチャうまくても無名で食えない人がいくらでもいる。たとえうまくなったとしても、インプロの第一世代さえまだかくしゃくと演奏を続けていて、おもだった演奏場所に余地は無い。演奏の場所もどんどん減っている。そんな中、年々安価にそして小さくなっていく電気楽器、イフェクター、(手軽に移動出来るというのも大きな要因だろう)発想さえ優れていれば、40〜50年やっている楽器奏者と肩を並べて演奏できるという感覚があるのかも知れない。ダメなら諦めるのも簡単。(もちろん、素晴らしい「音響派」のミュージシャンもいる。そこには、確とした動機と、この方法でなければ出来ないという方法論がある。)サント・エティエンヌのフェスティヴァルで会った中村としまる氏によると、彼の演奏のインターミッションでは、何人もの若者が、彼の使用機材のセッティング写真を撮っていくと言う。CDに関しても、日本と感覚が違う。ヨーロッパのインプロ系のフェスティヴァルにいくつか出ていると、素晴らしい演奏は、いくらでもあることが即座に分かる。日常のようにそれは起こって、その場で消えていっている。素晴らしい演奏がCDになるという構造ではない。少しばかり、私の感じるヨーロッパとの違いを言ってみた。
そんな中にいるミッシェルとこの録音の話に戻そう。
翌日は、市街劇に参加することになる。ある金持ちが、フェスティヴァル参加者全てを招待しての昼食会があった。おそらく150人くらいだろうか、希望者を全員郊外の自宅に招き、フルコース・ワイン付きを振る舞う。こういう事も、日本ではありえない事ですね。劇団員と私、ミッシェルは食後、早々に準備に向かう。ロデスの街の中に川が流れていてその川の中に小さな島がある。今日の舞台はそこだ。街の協力で車の通行が規制されている。中世の橋、建物などが点在している。街の子供達も参加してもらい遊び回る子供達を仕込む。劇団員達は、おのおの趣向を凝らし、あるものは傷痍軍人(カントールを思い出す)、あるものは洗濯女になる。私とミッシェルは、中世の建物の二階・三階にいて、窓から音を出す。劇団員に導かれ、聴衆が橋を渡って来る。私たちのいる建物にも何人かの劇団員が入り、窓を開け閉めしながらの台詞回しが即興的に続く。ハーメルンの笛吹きのようなミッシェルのソプラノ・サックスに先導されて、全員で川岸に移動。少し暗くなってくるあたりからスクリーンも使い、劇が進行する。遠巻きにミッシェルと私が音を出す。川にサックスを突っ込みながら演奏したり、劇の現場の様子と全く関わりなく音を出し続ける。このあたりがトラック3 に使われているものだ。最後のシーンで、ミッシェル・マテューがボートに乗って朗読をしながら登場し、ゆっくりボートが去っていく。終演後、真っ暗になった川岸で劇団員と食事を取り、歓談。お葬式にでるミッシェルの事情で、この日は車を飛ばしてミッシェルの自宅へ戻った。
トラック2は、ブロアの小さな図書館で収録された。ミニコミ誌『アンプロジャズ』の人達が主催。図書館に着くとあたりの様子が変だ。近くの建物から煙が出ている。ジャケットに使われている写真にそれが写っている。とても物騒な地域で、焼き討ちは日常だという。巡回している警備の車は武装されていて、ガラスにヒビが入っている。私たちの移動車は、純然たる中古車だが、これでもあぶないと言うので、図書館の中にシャッターをかけて駐車する。凄いところに来たな、こういう地域と図書館とは、何とも対照的だな、と話すと、こういうところだから図書館が必要なのだ、との返事。納得。先ず、いろいろな年齢・人種の子供達が集まっているところで、子供達とのワークショップ。アラブ、アフリカ系の子供が多いようだ。身の回りの音を聴き、遊ぼうと言う主旨で、新聞紙を用意してもらい、それをビリビリ破る音を楽しんでもらう。子供は遊びの達人だ。直ぐにクライマックスまで持っていく。その様子を録音しておいて、デュオ・コンサートでその音源を使う。これがトラック2だ。平日の昼間の図書館でのコンサート。老若男女、様々な人が聴きに来て、それぞれの感想を言ってくれた。泊めてもらった家では、カラスが餌付けされて飼われていた。不思議な日だった。
トラック5 は、スイス・アルプスで収録した。バルデュス関連の美術展が行われていたフリブルクの小さな現代美術館での演奏の翌日だ。この前後一週間、日本からお能の小鼓の久田舜一郎さんに参加してもらっていた。この演奏会での久田氏はツアー中ベストの演奏だった。ナンシーで午前一時から行われたアフリカの演奏家とのセッションで、ほとんど吠えていた彼。普段日本でのお能の会では、絶対にみられない状態。何かがはじけた。彼に来てもらった私の目論みが的中し、フェスティヴァル中のハイライトの一つだという批評が出ていた。その次の日程がこのスイスでの演奏で、ピークが来たのだ。演奏を終え、そのままその美術館に泊めてもらい、久しぶりいのオフの日を迎えた。一週間前は雪が降っていたというのに、その日はプールで休日をすごす市民がみられる。ゆったりとした充実した気分で主催者のギタリスト、ズビンデン氏の自宅を訪問。スイス・アルプスの麓で、グリエール・チーズの本場。絵に描いたようなアルプス高原だ。こういう素晴らしい環境に住んでいると即興演奏はどうなるのだろうなんてぼんやり思う。みんなで楽しく散策していると、ここで録音しようかというミッシェルの提案。自然児ミッシェルらしい。簡単な録音機材を持ち出して録音。当然、前夜の張りつめた演奏とは対極のものになる。大自然を背景に、遠くのカウベルの音、せせらぎの音を聴きながら演奏すると、音を出すおおもとの所が違うことを感じる。2テークばかり取った。上手な演奏など、何の意味もない。CD化することなど、夢にも思っていない。
トラック4 は、リヨンのオーリュー画廊でのフェスティヴァルから。1995年にもトリオで演奏したなじみの場所だ。オーナー夫妻もバスクラとヴォイスで即興演奏をする。今回は前述のトゥールーズのラ・フリブストのメンバーが中心になっている。ドーニク・ラズローさん、ニン・ル・カンさんらと再会。とてもファミリーな雰囲気なので、リラックスして演奏に集中出来た。ここでは、今までやっていなかった奏法も自然に出てきた。全員が同じテーブルで食事、皿洗い、そして、この建物内に宿泊。翌朝、誰ともなく、演奏を始める。どんどんといろいろな組み合わせのセッションが始まる。演奏会用の演奏とか、練習用の演奏とかの違いはない。演奏家がいて、楽器があり、スペースがあれば、演奏する。ただそれだけ。私も念願のニンさんとの演奏が出来た。思った通りの音、想像を超えた音がでてきてとても幸せ。ニンは今、韓国のシャーマン音楽に並々ならぬ興味を持っている。また、日本語も勉強していて、「新宿駅はどこですか?」なんて言ってきた。彼の生音を是非日本でも聴いてみたい。昼食後、ミッシェルと私は急いで、サント・エティエンヌへ移動。そこのフェスティヴァルでツアー最終演奏だ。(この模様は10枚組のインプロヴァイズド・ミュージック・フロム・ジャパンに収録)。演奏後、オーリューでの演奏が聴きたくて、車を飛ばしてまた画廊に戻った。仲間達が、それぞれの今の音を楽しみにして、聴き合い、話し合い、刺激し合い、演奏し合うという理想的な環境を体験できた。
このように、普通のCDの選曲ではなく、この「春の旅 01」は編集されました。聴く上の参考にでもなればと思い、書いたわけです。この旅には、この何十倍も書きたいことがあります。書く場所と時間があれば、いつか書きたいものです。