文:斎藤徹
過去の「失敗」は、書き換えられ「成功」にすることが出来る、なんて考えた。'96年のシンガポールでの公演を、これから未来に活かすことで、実りあるものに変えてしまおう、と。4年前の夏、シンガポールのサブステーションで、「何やってもいい」というめったにない条件に、ちょっと欲張りすぎてしまった。韓国からチョン・チュルギ、キム・ジョンヒ、フランスからミッシェル・ドネダ、アラン・ジュール、日本から澤井一恵、山崎広太を呼んで3日間の公演をした。シンガポールからも2人のマレー人(ザイ・クーニン、イフェンディ・イブラヒム)が参加した。私だけは、(マレー人を除いて)それぞれ共演経験があるが、横の繋がりは全くなく、4日間のリハーサルはアッという間に過ぎていった。5〜6カ国の言葉が入り乱れ、全く意志疎通の出来ない組み合わせも多く、新聞・雑誌・ラジオのインタビューはドンドンくるは、芸術系の学校の学生達が、ワークショップをやってくれと見学に来るは、ヴィデオを作品をとると言い出すは、「もうやりたくない」と言い出す人も出てくるは、「これは音楽じゃない」と怒り出す人さえ出てくるは、日本大使はくるは、文豪M氏の親戚はくるは、現地スタッフもドンドン意見をいいだすは、愚痴を全て受け付けるのが私一人と言う状態で、もう完璧にパニックだった。
私のもくろみは、確かなものだったが、いかんせん時期尚早だったのだろう。結局3日間全く違ったものを違った組み合わせで行った。こういう雑多で猥雑なものの中には、必ず宝物がある。形にはならなかったが私には確実に見えた気がした。それ以後、地道にしつこくやっていくしかないと思い、機会をねらっていた。'99年3月福岡アジア美術館のオープニングで「オンバクヒタム」というパフォーマンスをした。韓国からチュルギ、シンガポールからザイと弟子2人を呼び、日本は工藤丈輝(舞踏)と箏アンサンブル(栗林秀明・坪井紀子・水谷隆子)に参加してもらった。「ストーンアウト」「フォア・ザイ」という私の作品(クッコリ、フルリム、オンモリなどの韓国のシャーマン系のリズムを使った作品)を基に展開した。この経験で、アジア編は少しまとまったかな〜という感じがした。少なくとも私のやりたいことをメンバーが実感してくれたように思った。
'99年10月、ミッシェル来日。私と一月のツアーをすることになった。もう一つの道、ヨーロッパ編を深めるチャンス、ならばということで一週間、広島・岩国・九州とチュルギに来日参加してもらった。物事の流れと言うものは、不思議なもの。前述のアジア美術館で共演した弟子レオナルドの不慮の死の痛手を癒しにザイがたまたま来日、博多で我々の到着を待っていた。同じく、福岡在住の坪井紀子がツアーの運転手を申し出てくれた。2人とも演奏をしに来たのではなかったが、参加してもらい、トリオが、アッという間にクインテットになってしまった。このところ私の録音をしてくれている小川洋さんも合流、博多の画廊香月の森田俊一郎さんも車をだしてくれ、超多国籍の旅芸人キャラバンになり、大騒ぎの一週間だった。
チュルギとは10年くらいのつき合いだ。私の会った韓国人演奏家には、めずらしくシャイで、クールな学究肌。農楽ばかりでなくシャーマン音楽にも精通している本当に貴重な存在だ。今でも時間を作っては地方の老人達に伝わる音楽を学びに行っている。楽譜にならないこの種の音楽では、彼が今後、大変貴重な知識の宝庫になることは間違いない。過去、一緒に演劇の音楽(「火の仮面」初演)をやったり、何枚かCDの録音をしたり、板橋文夫・澤井一恵と短いツアーをしたりもした。何だかわからない私の質問にも丁寧に答えてくれる私の大切な先生だ。いかんせん私のサバイバル韓国語だけでのコミュニケーションがいかにも歯がゆいが、辛抱強く接してくれている。いつもありがとうと言う気持ちでいっぱいだ。こういうツアーだと、彼の意外な面も見ることが出来た。日本の演歌もどきを歌ったり、ポンチャックに興じたり、パスポートを紛失し青くなったり、出てきたら、うれしくて歌をうたってくれたり、最終日(トラック2/3/4収録の鹿島)では打ち上げで、普段飲まない酒も飲んで少々騒いだそうだ。(あいにく私は見損ねた。残念!)
ミッシェルとは、'94年にフランスはナンシーのミュージックアクションで会い、5th Seasonというグループ(Barre Phillips / Michel Doneda / Alain Joule / 澤井一恵 / 斎藤徹 / Hans Burgner / Martin Schultz)を作ってツアーをした。同じさそり座同志で初めからなぜか息があった。翌年、アランとトリオでフランスツアーをしCDも作り友好を深め、'96年のシンガポール、と続くわけだ。如何に息が合っても、やはり日本人とフランス人。わからないところも随分ある。一ヶ月間、いろいろ感じた。普段、完全な即興演奏しかしない彼だが、チュルギの出す韓国の伝統リズムに対して、極自然に演奏した。そればかりではなく、能楽の小鼓の久田舜一郎さんとの共演では、随分「待てる」演奏をした。これは、西洋人としてはめずらしいと感じた。能楽の出す「音」は、いわば「音楽」の要素としての「音」ではない。極端にいえば、能楽師は、自身をいわゆる「音楽家」と考えてないのではないか。その音は、異空間を創出し、ダイナミックスをあやつり、能舞台を強烈に演出していく。彼らの音に簡単に反応し「音楽」を作るべく音を重ねては台無しになってしまうのだ。ミッシェルの関心も「音楽」より「音」そのものにある。そのあたりで、共演可能な要素が有ったのではないだろうか。ミッシェルの演奏に「日本的」なものを感じたという聴衆のアンケートが多かった。翻って考えると、私のほうがとらわれていたのかもしれない。あの「日本人の脳」の「右脳」「左脳」の話にナルホドと思って、それをうのみにして判断していた。西洋人と日本人は楽音・雑音・言葉・虫の音など、聴こえる脳の部分が違うという話だ。その他にも、「日本人は三味線のサワリに見られるようにノイズを好む独特の民族だ」とか、「韓国は馬にのるから3拍子、日本は稲作だから2拍子」とかいう話と同じく、現場からみるとチョット待ってくれよ、という「学説」が多い。古今東西ノイズを好まない音楽のほうが例外的だし、韓国では3拍子以外のリズムが大変充実している。
ザイ・クーニンは、私がシンガポールへ初めて行った時、サブステーションのアーティスト・イン・レジデンスだった。動物のような、遠くを見つめる眼が強烈に印象に残り、何か大事なものをもっていると確信した。スラウェシ島に先祖をもつ海賊あるいはシャーマンの家系。アジアの芸能者としては、当たり前のことかもしれないが、詩人、美術家、写真家、役者、演出家、ダンサー、朗読家、パフォーマー、映像作家などなど多彩な活動を展開している。その表現は、個人の技術表現というよりは、儀式に近い。そんなためだろうか、世界各国からのオファーを、にべもなくキャンセルしてしまうことが多い。早くから家を出、森やストリートで生活し、道端で詩を歌っていたところを大学教授に見いだされ、超特例で大学に入学、演劇・哲学・美術を修めたという。'96年の公演の際、父親に「今後なるべく、テツと一緒に時間を使いなさい」と言われたとか。その後、何回か共演・日本ツアー・シンガポールでのガザール音楽との共演(彼の家族の楽団)などなどのつき合いが続いている。
坪井紀子とは、彼女が澤井忠夫・一恵の内弟子時代に会った。一恵さんが即興音楽に興味を持ち始めた時期だ。野外劇リア王の音楽で、ジャクソン・ポロックの題名を借りた「ブルーポールズ・オブ・リア」という箏の大アンサンブルを作った時、参加してもらった。同名のCDにも参加、私のアジアものの始まりである「ユーラシアン"弦打"エコーズ」にも参加、邦楽・雅楽・洋楽プラス韓国の俊英4人の打楽器・弦楽器の大編成に入り、17絃箏で韓国のリズムを演奏。その後、UCSDでの箏教授のため渡米、最近帰国。'99年のアジア美術館、テツ・ザイDUOツアーへの飛び入りを経て今回に至った。
この何年間かのいろいろなことが、繋がってこのCDになった。単なる出会いや、異種格闘技ではない。長く付き合えば、付き合うほど、ワカラナイところもドンドン増えていくのも事実。そんなつき合いで自分の中の知らない自分に気づくことが大いに楽しみになってきている。結局、しつこく続けて行くことしかないのだろう。ともあれ、こういう人々とつき合えている私の幸運を感じると言うのが正直な気持ちだ。大切に続けていきたい。
斎藤徹 21th Jan. 2000