90年にCD「テツ・プレイズ・ピアソラ」を出した。今、聴くと冷や汗ものの箇所が多い。「ピアソラのグループに入るのだ」と本気で思って、本人に渡そうとした。時は遅く、彼はベッドの上。人づてに病院までは届いたが、ちゃんと意識があり聴いてくれたかどうか不明のまま8年過ぎた。その間も、懲りずに幾つかのグループを作ってピアソラをやり続けた。メンバーがJAZZ系だったせいか、半年以内での解散を繰り返す。それぞれに思い出深いが、個人の演奏性に引き寄せ過ぎて、ピアソラ、タンゴを演奏する動機と理解がどこか欠けていたためだろう、またメンバー探しでさえ大変なのだ。次に私のタンゴが沸騰してしまう時はブエノス・アイレスへ行って演奏するしかないかと思っていた。
そんな時に小松亮太から出演の依頼があった。18歳下の彼から譜面の大事さなど多くのものを学んだ。特に印象的だったのは、日本での「タンギズム」のことだ。日本のJAZZやクラシック同様に、タンゴを生きてきた多くの人たちの、夢と情熱と人生をかけてきた長い歴史があり今でも厳然と存在することを改めて知らされる。そのエッセンスとして彼がいた。その彼のコンサートはピアソラ9重奏団を若い多くの才能とともに今の東京に再現させた。何度も何度も繰り返されるリハーサルの時に、タンゴを生きる人と自分との差を感じる。私にとってのタンゴはピアソラ、プグリエーセという「個人名」と自分との関係性のみで成り立っていることがはっきり解る。偉そうな顔で「タンゴ、タンゴ」と言うのが彼らの手前ちょっと恥ずかしくなった。ちょうどその当時、大阪の野口さんからピアソラをやるグループで秋に来てくれないかという打診があり、同じ轍を踏む恐れから申し訳ないが、断るつもりでいた。しかし、ここで一つの案が出てくる。「小松亮太を入れたグループなら何かできるかも知れない」でも「欲をだしてはいかん、また失敗をくりかえすのか?」では「一ヶ月限定でやってみようか」そして「これを私の日本での最後のピアソラ演奏グループにしよう、卒業など出来ないのだから中退記念に」、ピアソラにも「いつまでもやってるんじゃない!」と怒られそうだし、と言うことでこのグループが出来た。
アケタの店、横浜JAZZプロムナード、寝屋川市民会館、守口エナジーホール「ラ・フェスタ」、神戸ビッグアップル、松本 陀瑠州(ダルース)、大宮アコースティックハウスジャム、六本木ロマニシェスカフェ、柏ナーディスを3週間で駆け抜けた。前半は4人でやり、後半、近藤久美子(vl)に「どうしても」と、入ってもらった。彼女以外は全員サソリ座、季節もサソリ座に入り、私と小松亮太の誕生日がライブの最後の2回に重なったり、ライブ録音をしたり、私関係のライブではめずらしく多くの人が聴きに来てくれたり、ピアソラをこよなく愛した大木さんのロマニシェス閉店の知らせを聞いたりで終わりに近づくに連れて盛り上がっていった。そして、約一ヶ月後一回もリハーサルなしでこの録音日を迎えた。
曲目解説
ピアソラ最後のセステート(六重奏団)のレパートリーが多い。ガンディーニ(ピアノ)の入ったあのグループに対する共感が大きい。「つぎはぎ」にさえ見えそうな最後期の曲と演奏に私は何かを感じた。演奏することで体感したかった。ジュンバ(プグリエーセが創り出した究極のビート)の多用から来る2ビートの身体性と戦い続ける勇気、大平原の夢見るようなミロンガ、恥ずかしげもなく胸を張って「願い」を大声で歌いきるメロディー、透明なシンプルさと異常なほどの複雑さを表すテクニックの要求、それらを経て曲の最後に訪れる何とも言えない「肯定感」と「幸福感」。演奏からはみだしてしまう過剰さは、演奏の中で充足しない「求める気持ち」の大きさを表している。演奏で演奏以外のものを多く表している。どのジャンルでも飛び抜けて優れたものが持つ共通な特徴かも知れない。それも「全てか無か?」を性急に求めるロマンティシズムだけではなく「その場を如何に楽しむか」という所まで感じさせる。そんな最後の六重奏団の曲を中心に選び、過剰な所をより過剰にという課題をもって演奏に臨んだ。
1. ビジュージャ
ピアソラキンテート(五重奏団)再出発の時の象徴的な曲。力強いジュンバに彼の揺るぎない自信を感じた。曲名は「お金」のスラング。
2. 三人のためのミロンガ
「ラフダンサー・アンド・シクリカルナイト」で発表。美しいミロンガ。
3. コントラバヒシモ
エクトル・コンソーレのために作られた。ピアソラ3曲目のそして最後のコントラバスのための曲、これで3曲とも録音できた。(自己満足!)
4. 天使の死
野田雅巳による編曲、このグループのために委嘱した。もう一曲は「ビブラフォニシモ」で、これはコントラバスとバンドネオンのDUOだった。彼との出会いは前述の小松亮太のコンサート。その時は「ルンファルド」で編曲というよりピアソラとの共作という感じで印象的だった。しかも私の「テツ・プレイズ・ピアソラ」を以前から知っていて「会いたかった」というのでなおビックリ。リハーサルから足繁くつき合ってくれ、前述のツアーもほとんど聴いてくれたり、録音、マスタリング全てにつき合ってくれて、普通の編曲者の域を越えて本当の仲間になれた。これからもいろいろな形で続く予感。感謝!
5. ラ・ムーファ
「ニューヨークのピアソラ」で発表。ピアソラは再録していず、「BAIRES72」にテーマのメロディの形跡があるだけ。私は以前からずっと愛着があった。「不吉なもの」とか「憂鬱」とかいう意味で、元々は踊りのための曲。
6. ルナ
最後の六重奏団のために書かれた3曲のうちの一つ、元の曲はミルトン・ナシメントのための曲と言うから、両者を別々に聴き続けてきた私にとって驚きと喜び。そのさらに元の曲はピアソラ自身のためのものだったと世界一のピアソラ通、斎藤充正さんに教えていただいた。長い変遷の曲のようだ。前述したピアソラ晩年の特徴がよくでている名作。
7. ラ・カモーラ I
ピアソラリズムのエッセンスのような曲。彼の演奏でも何処まで書かれているか解らない。かなりのチャレンジだった。ハバネラからミロンガ、ジュンバ、タンゴのステディなビートと全部動員して最終の形になった。
8. イマヘネス676
676とはピアソラがよく出演していた店の名前。私達はいつもアンコールで弾いた。後半スティックで2台のコントラバスが弦を叩く。悪戦苦闘の1時間半の後にやるので聴いて下さった方も演奏者も開放された。この録音は最終日の最後の演奏なのでますますそう聴こえる。
1998年 1月26日 斎藤徹