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CD Aletered Egosのライナーノーツ

私は東方にずっと音楽的な関心を持ってきた。

その日、他のふたりのミュージシャンとミュンヘンのフェスティヴァルで演奏している私を、ローレン・ニュートンが聴きにきてくれた。公演の後、彼女はステージまでやってきてこう言った。「あなたと演奏したいわ」。その数カ月後、チューリッヒで私たちが行なったコンサートは、私にとってこれまでに最もデリケートな、物凄い、変わった即興演奏のひとつだったと思う。

それからさらに5〜6カ月後、私はリトアニアのヴィリニュスにいた(遠く東方の地である)。そこで私は、完全即興の音楽をやるというコンセプトを共有してくれそうな仲間を探していた。調性のない、またモードやパターンを持たない、サウンドだけの音楽。じきに私は、ヴラジーミル・タラソフを紹介された。いっしょに演奏を始めて5分もすると、彼がドラムを、私がピアノを別々に演奏しているのではなく、ふたりでひとつの音楽をやっているのだ(!)ということが分った。メンデルスゾーンの言葉を援用して、それを言葉のない音楽と言えるだろうか。

考え方は同じでなかったものの(しかし考えが同じだなんて面白くもないだろう)、同じ方法を取り、同じ感覚の世界に住みながら、同じレヴェルで探求を交換しあえることが分って、私たちはハッピーだった。トリオでもこうした世界を構築できたことに、私たちはとても満足している。私たちはあらゆる瞬間を構築する。それはすべてが即興だったからで、楽譜の助けはまったく借りなかった。ここでの楽譜はトリオそのものであり、それだけに私たちの世界は脆くはかない。こうした環境はとてもリアルなものだと思う。ちょうど通りに立って歩くか止まるかを決めるみたいに、私もここで自分の欲求や必要から、演奏するか沈黙したままでいるかを決定する。この場合になされる芸術的な決定は、音楽をよりよくするため、なにかとても非物質的なもののためになされる。存在するものを決定できないのなら、どうして存在しないものを決定できるだろう! もし神が人間や動物や森羅万象を創造したとしたら、そしてもし政治家が、人間にとって、また動物にとってすら最高のことを決定する力があるとしたら、神とはとても脆くはかないものだと言いたい。というのも、神が見そなわす森羅万象には、サウンドも含まれるから。つまり、これらすべての即興演奏、これらすべての創造行為は、絶えざる不安定にさらされた絶えざる発展であり、生き、働き、死に、人々を魅惑し続ける……。

こうした事柄についてトリオで話したことはない。私に言えるのはただ、こうした態度の共有が、私たちがそれぞれ知っている、見ている、聞いていると思っていることを、手で触れられるような確実さへと運ぶ(あるいはすべてを忘れさせる)ということだけだ。この方向とは、たぶん私たちが音楽と呼んでいるもののことである。

1998年5月 パトリック・シェイダー
日本語訳: 北里義之