Improvised Music from Japan / Teruto Soejima / Information in Japanese

Aya Collete CD『Live』ライナー・ノート

詩を糸として音楽を織る

副島輝人

アヤコレットの音楽に接すると、いつも靄のかかった別世界に入り込んだような気になる。絵画で言えば、モネの『水蓮』のような、霞んでいるが奥深い空間。そこに私は言い知れない魅力を感じている。

この靄に包まれたような音空間とは、一体何なのだろうか。アヤコレットは詩を歌いピアノを弾く――いや、歌うというより、独自のイントネーションで語っていると言うべきだろうか。それもかなり早口の語りであるから、詩の一言一句が明瞭に聴こえるものではない。時々、深い森の中を歩いていて不意に目の前から飛び立つ野鳥を見るように、一つの単語や短いセンテンスが一瞬姿を現し、しかしたちまち消え去っていく。演奏は進み、時間は流れている。

通常、歌詞を歌う、或いは詞に基づいて作曲する場合、詞のイントネーションを重視してメロディが創られるだろう。だが、アヤコレットは必ずしも言葉の抑揚に従属していないのだ。リズムについても、拍数が決まっている訳ではない――むしろ外しているから、フリービートなのである。つまり既成概念で歌う音楽を聴こうとすると、箸にも棒にもかからないものなのだ。輪郭が視えない曖昧音楽は、不思議な心地よさを聴く者たちにもたらしてくれる。

旧い音楽構造とは無縁な場所で成立している表現なのだ。だから正攻法の論理では律し切れない。譬えれば、大きな完全球体には歯が立たないのである。しかし、曖昧というメソッドこそ、現代芸術の表現の核となっているものではないのか。ボードレール、ラングストン・ヒューズ、金子光春、そしてジャン=リュック・ゴダールまで、アヤコレットが慎重に選び抜いた詩言語は、聴く者の耳を掠めて過ぎ去り、ピアノの音だけが、時に激しく、また優しく展がっている。言葉は何処に行ったのか。曖昧とは、奥へ奥へと人を誘うものだ。聴神経から大脳へと辿る途は、曖昧というマニエリスムの回廊を進む。山頂に近い奥の院は、地下の洞穴に在る地底湖へと繋がっているのか。

アヤコレットは、自分の感性で抱え込んだ詩作品を、単純な解釈やイメージとして聴く者に伝えようとは決してしない。むしろ、自分自身のために演奏している。センス…エスプリ…エクリチュール…サウンド…。彼女は、詩という糸を使って音楽を織っている。だから摩訶不思議な音世界が織り出され、我々聴く者たちは心地よいその世界に浸り切る。

彼女は詩言語に仕える巫女であり、その託を音楽にして我々に告げてくれている。この創造を総括すれば、『前衛ポップ』と私は呼びたいのだ。


Last updated: August 25, 2005