Improvised Music from Japan / IMJ

Marginal Consort (IMJ-702-705)

ライナー・ノート

集団で即興をする為の場を準備すること、マージナルコンソート。

音楽にならない音の形と調和をとらない集団、個の着想と集団の流動性、独立した個であり全体の部分でもある個、並存する時間と交差するリズムなどが、70年代から考えていた集団による即興のイメージ。だが、これらのイメージは具体的に何かを想定したものではないし、全体を規定するものでもない。しかし、音はあくまで個別に提出されるもので、その重なりから全体が生まれるという基本姿勢は崩さない。

独自のスタンスを持つ個について考えていた頃、昔の仲間達が(不思議な事だが)少しずつ異なるフィールドで活躍していることを知った。20年という時間が彼らのスタンスをどう形作っているのか。音楽的、器楽的な即興のスタイルに捕らわれることなく、音そのものから始めるという共通した前提を持ち続けていた彼らの意志に期待して参加してもらうことにした。

場所について。

参加者は、それぞれの方法を明確にする事とパフォーマンスのスペースを広くする為に、距離を取って配置する。従って、フラットなフロアーを持つ広い空間が求められた。音を素材とする即興が、恰も演奏という形式を思わせるが、ここで展開される行為は演奏という表現に留まらない。たとえば、ある行為の結果として生じる音、あるいは発音を目的としない行為。また、発音することが他者を目指して行われるのではなくパフォーマー自身が聴く、あるいは発見する行為。

音と沈黙の間で取り沙汰されている聴取が、けっして聴覚だけに留まるものではないという視点にたてば、様々な音が見えてくる。音は可聴音の範囲を超えて人体を刺激する。聴く(?)のは耳だけではない(耳は常時あらゆる方向に開放されているが脳が知覚するものは限られている。何が選別しているのだろう)。外界からの刺激が特定の器官に限定されるものではなく、刺激の特性による器官の優位はあるだろうが五官によって知覚される。この場合、あらゆる刺激は等価となる。

音響について。

パフォーマーの位置と差異を際だたせる為に個別のスピーカーをそれぞれの位置に配置する。そして最大音量の統一を計りメインアンプの音量を固定、各自が手元のミキサーを使い独自の判断で音量を調節する。従って、それぞれの音量にばらつきが出るが問題ではない。また、全体をまとめるPAはパフォーマーの配置が分かる様に極力抑えるか、または使用しない。

60年代から始まる即興音楽には、いくつかのスタイルや特徴があり、その一つが多分カートリッジミュージック以後のライブ・エレクトロニクスの登場、特に増幅により安易な手仕事でも様々な音を引き出すことが可能になったことで生まれた、器楽的音楽言語から解放された即興。マージナルコンソートもこの影響が強いだろう。しかし、身体的要素の強いパフォーマンスが電気的増幅と電気的でないものとを共存させている。

時間について。

それぞれの時間を持つ行為の進行が共通した時間枠を生み出すとは限らない。ある者は既に始まっているし、ある者は先に終わっている。そこで、時間の枠を決めておく事にする。

一つの行為が生み出す音は、繰り返されることで形を作り、更に変化していく。また、変化の中で他者との干渉が新たな変化を引き起こす。これらのプロセスには時間が必要だ。そして、美しい時間は全体の中で5分だけかも知れない。

1997年10月18日東京都台東区浅草のアサヒアートスクエア、午後4時から8時まで、マージナルコンソートは開催された。(この記録の一部はCD [P.S.F. Records, PSFD-104]で聴くことができる。)

その後、マージナルコンソートは毎年開催されている。また、会場の関係から3時間のパフォーマンスとなったが、この演奏(2003年、2004年)はCDに合わせて140分という時間枠を決めて行われた。また、マージナルコンソートの性格上、会場の位置により聴こえる響きは異なる。従って、この録音は便宜的にある位置でワンポイントマイクによって録音されたものを使用している。望むらくは、会場で体験して貰いたい。

2006.10.1 今井和雄


Last updated: December 22, 2006