初めてサイモンに逢ったのはいつだっただろうか? なぜか思い出せない。おそらく96年か97年、わたしが自分のアルバムの制作のために東京とロンドンを頻繁に行き来していたころだろう。わたしはいつもロンドン・ブリッジのロフトに滞在していたし、サイモンはそこから地下鉄かバスで十分程のブリクストンに住んでいた。お互いサウス・ロンドンの住人だったわけだ(たいていのロンドン人は、テムズ川でへだてられたサウス・ロンドンを都市の一部だとは見做さず、あまり寄り付かない。変り者や外れ者が住む街だと思っている)。彼のアパートを訪ねたり、近所のパブで飲んだり、スタジオで一緒にレコーディング・セッションをしたり、頻繁に顔を合わせていたはずだ。ただ、いつが最初だったのか…。いくつもの記憶が入り乱れて、ロンドンのどんよりとした曇り空のように、おぼろげな印象しか浮かんでこないのだ。
でも、それとは反対に、初めてサイモンの音楽を聴いた時のことはついこの間の出来ごとのようにはっきりと憶えている。十五年も前のことだ。その当時もわたしはロンドンに住んでいた。ブリクストンに薄汚れたアパートの一室を間借りしていた。貧乏なプー太郎だった。音楽をつくり始める以前のことで、何をしていいかすらわからず、どうしようもない生活を送っていた。近所の映画館でデレク・ジャーマンの『ラスト・オブ・イングランド』を観て鮮烈なイメージの数々に圧倒されたわたしは、一緒に観に行った友人からその作品の作曲家サイモン・フィッシャー・ターナーのことを教えられ、サウンド・トラックのレコードを手に入れたのだ。そのアルバム『ラスト・オブ・イングランド』は、いまから思えばわたしの音楽観の形成に大きく影響したと思う。肌に合うというか、自分の感覚にしっくりとくるものがあった。その他のどんな音楽よりも視覚に強く訴えかけてくるものがあった。ビジョンのある音楽だな、と。ありきたりな表現だが、それこそレコードの溝が擦り切れてしまうぐらい聴きまくっていた。そのうち自分もこんな音楽をつくれたらな、と思った。もちろん、その時は後にサイモン自身と一緒に仕事をするようになるとは思ってもみなかった。
若い頃はただのファンとして、その後は一緒に音楽をつくる友人として、わたしはサイモンの音楽に長い年月に渡って接してきたわけだが、これまでにリリースされた数多くのアルバムを聴き返してみると、このひとは本質的になにも変わっていないのだな、と思う。十七歳でデビッド・ボウィの曲をカバーしてアイドル歌手としてデビュー。キング・オブ・ルクセンブルグという名義で実験的なセンスを匂わせたポップスのアルバムをエル・レコードからリリースした。デレク・ジャーマンのコラボレーターとして数多くのサウンド・トラックを担当したことから映像表現とも深くかかわった。SFTと名義を代え、ポリフォニックなボイスとフィールド・レコーディングされたノイズを複合的にコラージュした音響作品をいくつかつくりだした。このような幾多の紆余曲折を経て、たえず異なる領域に足を踏み入れてきたにもかかわらず、彼の音楽そのものはいつも同じであり続けたし、何処かのシーンに属することはまるでなかった。そう、まるで異邦人であるかのように。いつだってサイモンは音楽のあらゆるポリティクスとは無縁の場所にひとりきりでたたずんできたのだ。
では、サイモンとは、いったいなに者でどんな音楽をつくり続けているのだろうか? これまで欧米のメディアでは、彼の音楽と映像表現の近似性について指摘されることがやたらと多かった。映像を喚起する音楽、もしくは映像表現の方法論を取り入れた音楽だというわけだ。そして、先にも触れたが、それはわたしが彼の音楽から最初に感じたことでもあった。確かに、サイモンの音楽のつくり方は映画のつくり方に似ている。デレク・ジャーマンを筆頭に、数々の映画監督との共同作業を経て自分の音楽のスタイルを確立したのだから、当然といえば当然なのだが…。彼の音楽の制作過程を簡単に説明してみるとこうなる。サイモンは、フィールド・レコーディング・マニアで日常的に身のまわりの音をDATやカセット・レコーダーで録りためている。それらは具体音であることもあるし、誰かがなにかの楽器を演奏した音であることもある。たいていは、それらの録音物(映画で言えばフッテージ)を切り刻んだり、組み合わせたりしながらコンピューターかサンプラーで編集し、ベーシックなトラックをつくる。そして、その上に他のボーカリストの声やミュージシャンの演奏を足したりしながら、アルバムのコンセプトに沿って再び全体に編集作業を施していく。細部をつくり込むのも、全体を構成するのも、ズーム・アップ、カット・アップ、パンニングなどのフィルム編集上のテクニックが多用され、<作曲>というよりは<編集>の感覚が最大限に活かされているのがミソだろう。
しかしである、サイモンと一緒に仕事をしてみるとよくわかるのだが、彼は頭でものごとを考え音楽をつくりあげていくタイプではない(わたしもそうなのだが…)。手作業で身体を動かしながら自分の感覚を音楽に移し込んでいくタイプなのだ。だから、わたしが彼のアルバムに参加したり、彼がわたしのアルバムに参加したりしているわけだが、これまで、音楽制作に於ける方法論の話なんてほとんどしたことがない。たいていは、逢ってその場でいきなり音をだしてみるか、テープになにか音を録音して郵便で送りあうか。ことばで話すよりも、音や映像にまつわるイメージ=記憶を交換することにエネルギーを費やしてきたように思う。はっきりと言ってしまうと、そんな風にイメージの世界に遊ぶことがわたしたちが一緒にやってきたことだし、それがサイモンの音楽を読み解く鍵になるような気がするのだ(もしかすると、だからよく一緒に過していた時期のことはあまり憶えていないのかも知れない。事実関係ではなくイメージとして記憶してしまっているのだ、きっと)。
で、いきなりなのだが、さっと結論を言ってしまうと、サイモンは<記憶>ということを媒介にして音楽をつくりだしているのだと思う。スタイルでもなく、方法論でもなく、エッセンスの話だ。彼の個人的な日常から拾いあげてきた音や映像の断片を集めていき、そこから自然に立ち現れてくる記憶の原風景のようなものを音楽として定着させる。それが彼の音楽の本質ではなかろうか。さらに、面白いのは、サイモンはいつも他人の記憶を自分の音楽に混ぜ込もうとすることだ。どのアルバムにもたくさんのミュージシャンが参加しているが、わたしからすると、各自が記憶を持ち寄り、みんなでそこから見えてくる集合的な風景を眺めているように感じるのだ。サイモンはそんなゲームをつかさどる触媒(カタリスト)というわけだ。彼の存在と感覚を通して見えてくる世界は彼のものでしかありえないのだが、彼自身のオープンな音楽観はすべてを飲み込み、他のひとも同じような風景を夢見させる状態に連れていってしまうのだ。
そして、このアルバム『SWIFT.』は、SFTとしての最新作である。サイモンの二十の楽曲に対して、映像作家のアダム・シェファードが同じ数の映像を付けたものがDVDとしてカップリングされている。こういう形態になったのは、数々の映画監督とコラボレーションを重ね、サウンド・トラックのスペシャリストとして知られるサイモンならではの自然の成りゆきというものだろう。だが、『SWIFT.』は映画ではないし、純粋に音楽というわけでもない。どちらの文脈からも微妙にずれたポイントに、なにものとも判別のつかぬままに、不思議なバランスで宙吊りにされているのだ。では、これはいったいなんだというのか? これは、彼みずからが<LIFEMUSIC>と言うように、わたしたちの生活を包みこむ世界のざわめき=ノイズを、緩やかなシャッター・スピードで写し撮ったドキュメンタリーなのだ。何処にでも転がっている日常的な風景から切り取られてきた音と映像のフラグメントは、より記憶の原風景に近い形でアルバムのなかに無秩序に放り込まれている(音楽的なスタイルはそれほど重要視されていない。だからコーラル・ミュージックがあり、ジャズがあり、ラベルのボレロがあり…、なんでもあるわけだ)。ある意味では、このアルバムは音楽作品としてなんら完結しているわけではない。むしろサイモン自身の記憶の断片を聴き手に提示することによって、両者の思い描くイメージの連鎖によって、ひととひとが、記憶と記憶がつながり合い、そこで初めて完成する作品だと言えるだろう。
<LIFEMUSIC>、このことばにすべてが要約されているだろう。サイモン・フィッシャー・ターナーの音楽は、いかなる音楽の形態よりも、さらに突き詰めて言えばいかなるアートの形態よりも、ひとびとのライフそのものにより近いような気がするのだ。『SWIFT.』は、もしかすると、わたしたちの住むこの世界を映しだす鏡のようなものなのかもしれない。
2002年11月 ハノーバーにて
(Uplinkより2002年12月にDVDで発売されたSFT『SWIFT.』に掲載。)