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あいまいな日本の即興

恩田晃

中村としまる『Side Guitar
秋山徹次『Don't Forget the Booge!
秋山徹次 / 中村としまる 『Meeting at Off Site Vol. 3
ラク・スギファッティ(ラドゥ・マルファッティ / 杉本拓)『Futatsu
田中悠美子 『たゆたうた
吉田アミ『虎鶇
半野田拓『トルコインセンス!!!
asuna『Organ Leaf

日本の即興の現状について、思いつくままに書き連ねておく。即時性重視、ちょっとしたブレインストーミング。今(current)の流れ(current)に寄り添うようにして。作り手にせよ受け手にせよ、結論は各自の選択の問題なので好きなように考えて欲しい。

「音楽の流行について考えるとき、問題なのは探究という名目ですぐに新しいものにとびつくことである。(中略)真の探究者は、昔からつねにそうだったように、そんなに何人もいるわけではなく、探究というものが本来そうであるように、輝かしい道を発見するのと同時に、多くの袋小路をも見出すものだ」----- 60〜80年代までの革新的なジャズについて、明晰な論考を重ねてきた評論家の清水俊彦がこう語っていた。氏の文章には、時代に対する音楽のアクチャリティーとは、という問いかけがいつも根底に横たわっていて、それがその時代における音楽の先鋭的な側面を照らし出していた。そして、時代は新たなる世紀に突入し、アクチャルな音楽の在り方そのものも見事に変貌を遂げてしまった。

その最大の一例は、即興にせよ、作曲にせよ、極端にノート・ベースからサウンド・ベースに移行してしまったことだろう。若い世代の音楽家が音符を組み立てることが少なくなり、それにかわって音色のパレットを塗り込めるようにして感覚的に音楽をつくりだすことが普通に行われるようになった。ラップトップ、エレクトロニクスなど、演奏におけるテクノロジーの汎用がそれに拍車をかけたのは言うまでもないが、彼ら、彼女らがジャズや現代音楽だけでなく、ロックやテクノも同様に聴いて育った世代であることも影響している。

フリー・インプロヴィゼーションについても、以前は学閥的、かつ楽理的な体系に囲われていた知識がいったん無効になってしまった。ただ、日本に限っていえば、こういう動きはヨーロッパのデレク・ベイリーに代表されるような古典的なフリー・インプロヴィゼーションや現代音楽のそれから現在のフリー・インプロヴィゼーションへといたる流れとは、ほとんど絡み合っていない。結局のところ、日本には即興を体系的にとらえるという論理的なバックグラウンドなど存在していなかったし、現在も存在していない。

例えば…、最近の杉本拓の無音を強調した音楽と、クリスティアン・ウォルフの『Stone Music』の違いを考えてみよう。前者はただの美学を論理に置き換えようとしている(無自覚、無鉄砲に。で、失敗しているが、その失敗は肯定的に評価すべき)。後者はその反対で、音楽の根底には日本の音楽にはない論理的、楽理的ベースがあり、そこから美学を導きだそうとしていた(こちらはやや自覚的だった。で、失敗しているが、その失敗は肯定的に評価すべき)。例えば…、いかに演奏しないかを競いあうインプロヴァイザーが多く現れたころから、「聴取」なんて言葉が再び流布してもいるが、その問いかけが何処に向けられているか、明確ではない(音楽? サウンド? 1952年の4分33秒に戻りますか?)。既成の枠組を解体、再生=最盛するのが、いわゆる芸術の進化とすれば、そこには至らず、意味もなく生成と消滅をくり返している。

根底にまるでロジックがないのだ。なんとなく状況に合わせて音楽をつくり、音楽はもやもやしたまま放置され、 評論家はそれとなく書くしかない(もしくは、誰もなにも書かない)。これが『あいまいな日本の即興』の現状だろう。しかし、大江健三郎いわく『あいまいな日本の私』である。それらすべては日本的な体質、もしくは美学の問題として回収されていくので、言葉で定義しようにもできないのではないだろうか。とはいっても、わたしはだから悪いとは思わない。過去の歴史からの引用を余儀なく求められ、ずいぶんと疲弊してしまっている西洋の即興の最前線を見ていると、考えようによっては、日本は隔絶されているがゆえにラッキーなんじゃないかとすら思う。

例えば…、ロンドン、ウィーン、ボストンなど、伝統的に音楽に対する言論の力が強い都市では、フリー・インプロヴィゼーションはリダクショニズム的な傾向を強めている。音楽的には断片化が、政治的には細分化がすすんでいる。どう考えても閉じていっているようにしか見えない。そうなると、マルファッティなどもそうだが、禁欲的な態度で音楽に臨むことで自己陶酔に落ち入るひとが多く、ファシズム以外のなにものでもない。彼らは自分たちが音楽の歴史のなかで正統なのだといいたいのだ(それは音楽に対する言論にしても同じこと)。彼らにとっては現代音楽への言及も、日本の即興をたたえるのも、ようするに同じ理由からなのだ。そこを単純に評価されている、と勘違いする日本人インプロヴァイザーも多いようだが、それは文化の違いに対する理解不足から生じる誤解でしかない。

わたしには、ここ数年の欧米の即興の最前線たるものは、20世紀の12音音楽の行き詰りを思わせるたりもする。そこから先、無音の静寂の果てにいったいどんな音を響かせるのか、ということを考えるほうがいい。

以上をふまえた上で、最近リリースされた、オープンマインドな感性をそなえた、素晴らしい日本の即興音楽をいくつか紹介しておこう。

中村としまる、秋山徹次が相次いで新作をリリースした。彼らはミーティング・アット・オフサイトのシリーズで、ベタな経験をやまほど積んできただけあって、抜きん出た音楽性を誇っている。中村としまる『Side Guitar』は、ギターのフィードバックをフューチャーしたロング・ピース3本。『Vehicle』はポップに、『No-input Mixing Board 3』はコンポーズで、過去2作は変化球で攻めていたのに対し、これは直球一本勝負。そういう意味では、これまでの最高傑作『No-input Mixing Board 2』に近い。ジャケットには、鳥なのかミジンコなのか、わけのわからない生き物が集団催眠に落ち入っている様子が描かれているが、なぜか、わたしはこの音楽を聴くと眠くなる。妙な催眠効果のある不思議なアルバムである。『Don't Forget to Boogie!』で、ブギーなギターをかき鳴らす秋山徹次の新作は、ヘルス・エンジェルス張りのジャケからして大胆不敵。以前のアルバムの作風からするととんでもない飛躍だか、その突飛な跳躍こそが彼の即興の真骨頂である。

杉本拓とラドゥ・マルファッティの共同作品『Futatsu』は、色々な問題を提起してくれるアルバムだ(即興というよりは作曲に近いのだが、境界線はあいまい)。ふたりの音の違いに耳をよく澄ませてみると、色々なことが見えてくる。Futatu の音楽家は、Futatu の異なった言語を話している。ゆえに、Futatu のサウンドは併置されている。理由は以上にものべたが、バックグラウンドの違いに起因している。だが、このような失敗を恐れない実験精神こそが即興の原動力と成り得てきたのだ。批判するだけでなく、そこは買いたい。杉本拓の音楽の根底にはある種のダンダィズムが横たわっている。美学といいかえてもいい。そこは初期の作品から変化していない(評論家は決してこうは書かないだろうが、ダンディズムこそがこのふたりが共有しているものだ。行間ならぬ、音間を読むといい)。

田中悠美子『たゆたうた』は、太棹三味線のソロ・インプロヴィゼーション。撥を使わずに弾いてみたり、特殊奏法を試したりもするが、その在り方はノンシャラン。だが、個性に支えられた即興という意味で、以前のフリー・インプロヴィゼーションが持っていたいきいきとした演奏の醍醐味を味わわせてくれる。本流に対するずれ方がユージン・チャドボーンのようでもある。アクの強いよれた演奏も含めて「ずれ」を楽しめる。

吉田アミ、半野田拓は、個性と野生と音楽性がうまく絡みあっていて、今後が楽しみだ。吉田アミ『虎鶫(とらつぐみ)』は、鳥のさえずりのようなボイス・ピースが99曲。鳥のさえずりのように意味はない。だが、圧倒的な存在感がある。才能といいかえてもいい。大阪の若手マルティ・インストロメンタリスト半野田拓のデビュー・アルバム『トルコインセンス!!!』は、安物のズームのサンプラー1台で、ユーモラスな音楽を即興的に叩きだす。グルーブの感覚、スピードの感覚が異様に鋭く、日本人離れしている。このひとは、そのうち凄いものをつくるだろう。

asuna 『Organ Leaf』は、足踏みオルガンを用い、自己の内面を散策する。このアルバムは、アレハンドラ & アーロンのラッキー・キッチンからリリースされたが、彼ら、彼女らが描き出す牧歌的なメルヘンにも通じ合う繊細な音楽。彼は、アートを学ぶうちに音楽の世界に入り込んだようだが、アート系のアプローチを音楽に応用することや、独自の楽器演奏法を身につけることは、ブライアン・イーノ以降、音楽に対するひとつのアプローチとして定着してしまった。オブスキュア・レコードのシリーズを聴き直してみるといい。その流れがフリー・インプロヴィゼーションに及ぼした影響は計りしれないものがある(ここにもサウンド・ベースに移行したひとつのキーがある)。

正直なところ、ここで選んだもののなかには、果たしてこれを即興と呼んでいいのか、微妙なものもある(加えて、故意に常識をなぞるものは避けている)。だが、こういう音楽のほうが、とにかく先へ進もうとしてきた即興のダイナミズムを体現している、ともいえるのではないだろうか。少なくとも、明確なスタンダードが消滅した『あいまいな日本の即興』には、このような多様なひろがりはあってしかるべきものだと思う。

最後に、本稿を書きなぐるにあたって、OFF SITEの伊東篤宏氏との会話の中でいくつもの着想を得たことを記しておく。

(以上は、スタジオ・ボイスのために執筆した記事のオリジナル・バージョンです)

『スタジオ・ボイス』(2004年4月号)掲載


Last updated: March 28, 2004