細海サカナが繭のファースト・アルバムを世に問うてからすでに3年もの年月が過ぎた。その間にエクストリームから3枚、ミル・プラトーからネイナ名義で2枚、計5枚のアルバムを矢継ぎばやにリリースし、有機的な繊細さに満ちたそのサウンドは欧米のメディアからも一定の評価をもって迎えられた。特に最新作の「Maju 3」は素晴らしいできばえだ。エレクトロニック・ミュージックというスタイルの必然性などはどうでもいいほど音は抽象化し、あまりにもパーソナルなサウンド・スケープを描き出している。「なにも考えなくなりましたね。世の中がどうかだとか、どんな音楽をつくらなきゃいけないとか、どうでもよくなってきて。部屋に閉じこもって日記をつけるように音を作ってました」と彼はいう。繭のなかに引きこもり、内なるものへと向かう旅の途上で垣間見た心象風景が静かにサウンドとして立ち現れてくる。「でも、パーソナルだからといって閉じているわけじゃない。可笑しな話なんだけど、東京に住んでいて世間から隔絶されればされるほど自分たちの音楽が遠く離れた場所で受け入れられていくと感じるんです(笑)。アメリカの植物学者ルパート・シェルドレイクが提起した<形態的共鳴>という考えがあるんだけど。それは、ある生物種の一匹が新たな行動を学ぶと同種の生物の生態系全体に影響を与えるというもので、よく知られているのが百匹目のサルの原則。ひとつのサルのグループが新しい行動を覚えると、通常の伝達手段を使わずに他の大陸のサルたちもその行動が伝播してしまう」突飛な話だが、なるほど、と。繭の音楽はポルトガルのラファエル・トラル、オーストラリアのオレン・アンバーチなどの音楽と極めて似通った方向性を示している。メインストリームから外れた辺境の地でエレクトロニック・ミュージックの方法論を用いながらも、個人の音楽的ビジョンを表現することを第一義としてきたアーティストたちだ。明らかに、彼らは音楽を構成するフレーム(ストラクチャー)自体より、そこを通り抜けて見えるパーソナルな世界を提示することに賭けている。最近、ミル・プラトーなどが象徴していたヨーロッパ的な知性(かなりまやかしだった。ネイナがその代表恪からリリースされているのはやや皮肉)を売り物にする匿名性の高いエレクトロニカの衰退に反比例するように、彼らのようなアーティストが勢いづいてきた。ただ、彼らの音楽は新たな革新性を打ち出しているわけではないので、現在の音楽シーンに対するオルターネイティブとしては機能しない。むしろ、情報戦争のごときパワー・ゲームから外れた辺境にいるがゆえにこうなったのかも知れない。「北海道の田舎で育ったんです。隣の家が見えないような大自然に囲まれた環境なんで、ひとりで想像力を働かせて遊ぶしかなかった。最近、そんな子供の頃の感覚に立ち返ることが多いかも」こんな風にいう細海サカナの音楽は、彼自身の記憶を触媒にして遠くの何処かで形態的共鳴をくり返している。こことあそこで音楽は輪となって流れはじめる。<世界の果て>でなにかが少しずつうごめき始めている。
『ミュゼ』Vol. 36(2002年3月発行)掲載