生き残ったのはフェラーリただひとり…、新しいアルバム『Les Anecdotiques(いくつもの逸話)』を聴いて、つくづくそう思った。
かつてフランスにミュージック・コンクレートという音楽のジャンルが存在していた。テープ・レコーダーに録音した日常生活のなかの具体音を編集、加工して作曲を行う音楽で、1958年にピエール・シェフェールによって結成された音響実験集団GRMを中心に、フランソワ・ベイル、ベルナール・パルメジャーニなどの一癖も二癖もある連中が刺激的な実験をくり拡げていた。面白いのは、シェフェールは探偵小説を書いていたり、パルメジャーニは俳優をやっていたり、権威主義的な現代音楽の世界にありながら、彼らは音楽馬鹿ではなかった。だから、マルティメディア的なセンスを持った色香のある音楽が生み出されていた。68年の五月革命に至るアナーキックな変革の萌芽が散らばっていたパリの雰囲気とも絡みあっていた。フェラーリは、そのズレた世界のなかでもさらにズレまくっていて、徹底的にシステムを嫌う性格からか、<逸話的音楽>なるものを標榜し、パーソナルなストーリーを虚実にかかわらずでっちあげ、日常生活に密着した音楽を紡ぎ出していった。それは、その後、GRMの多くの作曲家が具体音楽を物理的に理論化させていき、エレクトロアコースティクという概念として発展させ、研究機関に属して権威を固めていったのとは反対の生き方だった。
(80年代に、アカデミックな研究機関でのミュージック・コンクレート、及びエレクトロアコースティクは現代音楽とともに袋小路に入り込み、音楽の新たな可能性を切り開いていく役目を終えた。音楽的にも死んでしまった。その後、優れた才能は在野にしか見出せなくなる)
で、『いくつもの逸話』は、フェラーリが旅先で録り溜めたフィールド・レコーディングをベースに、彼のアーカイブから引っぱり出してきたシンセ音源、それに趣味で録音しまくっていたうら若き女たちへのインタヴュー(口説く口実? 単純に楽しいじゃない)を加え、音を愛撫するように編集、加工を行ったものだ。そこにあるのは、作曲家自身の私生活、女たちとの戯れ、フレンチな洒落と洒脱が入り交じった日記的なサウンドスケープだ。シリアスぶったところなどなく、専門的な知識がなくても楽しめる。今、『プレスク・リヤン』などの過去のフェラーリのミュージック・コンクレートの代表作を聴き直してみると、背後にあるストラクチャーはもろクラシックなのだが、『Les Anecdotiques』に至っては、現在普通に流布している実験的なポピュラー音楽のセンスも見事に取り込んでいる。最近リリースされたノエル・アクショテとローランド・アウゼとの共作『インプローマイクローアコースティク』でも、インプロで演奏することに初挑戦していたが、75歳になるフェラーリは、未だに自己を更新することに貪欲なのだ。だから、『Les Anecdotiques』は、もはやミュージック・コンクレートという範疇だけで捉えられるものではない。血の通った、生きた音楽だ。ユーモアの精神を忘れずに身軽さでサバイバルしてきた伊達男だけが生き残ったというのも皮肉なものだが、結局のところ、フェラーリは、知性と野性において他のだれよりも優れていたということなのだろう。
後記:フランスには、ジェローム・ノタンジェ、リオネル・マルケッティなど、エレクトロアコースティクのアイディアを用いながら、素晴らしい音楽をつくりつづけているコンポーザー達も多く存在する。彼らは、中央集権的なパリではなく地方都市に住み、あくまで在野に属しているのだが、本来の意味でのエレクトロアコースティクの伝統はこういう人たちへと受け継がれていったように思う。このあたりの動きについては、そのうちにまとめて書きます。
『スタジオ・ボイス』(2004年10月号)掲載