Improvised Music from Japan / Information in Japanese / Aki Onda / writings

ジョン・アップルトン『アップルトン・シントニック・モノトリー2

ジョン・アップルトン
翻訳:恩田晃

これは、フォノメナからリリースされたジョン・アップルトンのアルバムについていたおまけの自伝を翻訳したものです。とんでもない奴でしょ、このひと。電子音楽の世界において、このユニークさは他に類をみないですね。しいていえば、アメリカのリュック・フェラーリですかね。わたしがアメリカに移り住んだのも彼がいたからだし、大切な友人です。アルバムも必聴です。電子音楽というものが、限りない可能性に満ちていた時代の息吹きを感じることができます。


このアルバム『アップルトン・シントニック・モノトリー2』に収められた数々の楽曲は、わたしの人生における幾多の局面を反映したものだ。もちろん、あなたがこのアルバムを楽しむために、わたしの個人的な物語を知る必要があるとは思わない。しかしである、リスナーのなかには作曲家の辿ってきた人生の紆余曲折を知りたいという奇特な方もいらっしゃるかもしれないではないか。音楽と一緒に、クロスワード・パズルを楽しむかように、読んでいただければ幸いである。

かれこれ100年も前のことだ。わたしの父は1900年にモルダビアで生まれた。だが、その頃、ロシアで横行していたユダヤ人に対する虐殺(ポグロム)を逃れて家族とともにアメリカに移住。ニューヨークのローワー・イーストサイド、ラドロー通りにあったユダヤ人ゲットーで、彼らの新天地での生活が始まった。父は、独学ながら物書きとなった。ロシアで授かった名前、シャイム・エッペル・ボイムをアメリカ風にチャールズ・レオナード・アップルトンと改名した。そして、わたしの母、ヘレン・フローレンス・ジャコブスは1907年にフィラデルフィアで生まれた。彼女は稀にみる美貌と知性を合わせ持つ才色兼備の人であった。

わたしの両親は、ハドソン川沿いの街クロウトンのある裕福な投資家によって設けられたアーティスト村で初めて出会った。その頃の彼らは若く、理想に燃えていた。ラディカルな政治思想に酔いしれていた。共産党のメンバーとの連帯が彼らの心のよりどころであった。30年代、世界恐慌後の不安定な時代をなんとか上手くサバイバルしていこうとしていた。

だが、この世界をより良くしようとする理想だけでひとは生きていけるわけではない。わたしの両親は政治活動に熱中するあまり、家族の生活を維持していくことを疎かにしがちだった。1932年、結婚してすぐのことだ。彼らはわたしの兄を授るやいなや、貧困にあえぐアメリカ大陸を横断する長い旅に出た。終着地点はロス・アンジェルス、幸運なことに彼らはすぐにハリウッドの映画界のなかで職にありつくことができた。母は、MGMのフィルム・エディターとして働き始めた。それに、彼女は、共産党ロス・アンジェルス支部の秘書でもあった。わたしは、母が、オスカー賞を勝ち取った『ベスト・イヤーズ・オブ・アワ・ライフ』や『アクション・イン・ザ・ノース・アトランティク』のプロダクションにかかわっていたと、自慢げに話していたことをよく憶えている。そして、それらの映画の脚本は、わたしの名付け親であるジョン・ハワード・ローソンによって書かれたものであった。わたしの父は、20世紀センチュリー・フォックス社の脚本家となった。彼が手掛けたのは、---少なくともわたしの知る限りにおいてだが、---『ラッキー・ジョーダン』という作品の脚本であった。

わたしの両親にとって、ビバリー・ヒルズで暮らした数年間は必ずしも幸せに満ちたものではなかったようだ。結婚生活は少しずつ綻び始め、お互いの気持ちは隔たるばかりだった。父は、ニューヨーク時代から親しかった左翼系の仲間達とも距離を置き始め、最後には政治からきっぱりと足を洗ってしまった。彼のミドル・ネームである "エッペル" を名字として使い始めたのもその頃のことだ。そもそも、彼は<家庭>なんてものは欲しくなかったのだろう。1939年のわたしの誕生も事態を悪化させるだけだった。最後には、兄が階段から紐をぶらさげて首吊り自殺をはかったのを機に、父は家を出て行ってしまい、二度とわたしたちの前に姿をあらわすことはなかった。その後、母は、2年間に渡ってふたりの子供とふたつの仕事を抱えながら苦境を切り抜けようとした。しかし、力尽きたのだろう、1941年にわたしを "ベルおばさん" という孤児院に預け入れた。兄は "パロマー軍事教練学校" に編入させられ、2年後にはわたし自身もそこに入ることになった。そう、わたしの人生の最初の記憶といえば、孤児院のベビーベットから窓の外にだだっぴろく広がるロス・アンジェルスの景観を空ろな気持ちで眺めながら、わたしの母は何処にいるのだろうか、途方にくれるわたし自身の姿であった。

ユートピアを夢見、知性を重んじ、自らに酔いしれる連中を両親として持ったことは、けっして幸せなことではなかった。彼ら自身も、子供たちを足手纏いと感じていたに違いない。ただ、わたしは、社会正義を重んじ弱者に与する思想を、母から見事に受け継いだ。社会に牙を剥く負け犬根性というわけだ。それに、これも母のおかげだが、わたしも兄も、誰にも頼ることなく自分たちだけで生きていけるようになった。10歳の頃から実社会でいくつも仕事を経験し、なにをしようとも他のひとたちより秀でていた。ただ、残念なことに、こんな殺伐とした境遇に育ったせいだろうか、他のひとたちを信頼することを忘れていたようにも思う。

1945年のことだ、わたしが6歳の時に、母はロシア人の音楽家であるアレキサンダー・ウォルデン・ボムシュライン(通称サッシャ)と再婚した。これは、天からの贈り物のような、素晴らしいでき事だった。サッシャは、わたしと兄を軍事教練学校から連れ戻し、皆で一緒に "家族" として暮らすべきだと言い張ったのだ。わたしは彼が大好きだった。それに、サッシャは、音楽の世界をわたしに開眼させてくれた恩人でもある。わたしに音楽的な資質があることを素早く見抜いたのだ。どんな楽曲を聴かせても、一緒に歌いだしたり、踊りだしたりしたからだろう。わたしたちがハリウッドのゴーワー通りにあったサッシャの家に "家族" として落ち着くと、彼は、わたしにラジオを買い与えてくれた。それが嬉しくてたまらなった。毎晩ベットの上に身を投げ出すと、クラシック音楽専門のチャンネル "KFAC" にチューニングを合わせ、すべての番組がフォーレの『パヴァーヌ』とともに終了するまで聴き続けていた。両親はわたしが眠らずにラジオばかり聴いていることを知ってはいたが、きっと音楽はわたしの気持ちを落ち着かせるに違いないと思い込んで、何も言わずにいた。だが、事実は逆で、音楽はわたしにとって興奮剤のように作用し、ますますのめり込んでいったのだ。ある日のことだ、サッシャは、わたしに彼の蒐集していた78回転のレコード・コレクションを聴くことを許してくれた。スカルラッティ、プロコフィエフ、ロシアの民衆の歌などがあった。そして、6歳でわたしはピアノを習い始めた。

サッシャの生い立ちについて少し触れておこう。彼は、ロシアのウファに生まれた。赤軍の一員となったが、反ユダヤ人政策の強化によって国を追われ、家族とともに上海に逃れ、ロシア出身のユダヤ人コミュニティーにもぐり込んだ。そこで彼は銃を捨て、バイオリンに持ち替え、音楽家として身を立てることにしたのだ。そして、1925年には、ニューヨークに移住した。だが、彼は生涯を通じて、ソビエト連邦こそが世界の未来を担うという思想を捨てなかった。思うに、彼がソビエト連邦への忠誠心を持ち続けたのは、"母なる大地ロシア" に対する思慕からではないだろうか。亡命者のこころの奥深くに潜む望郷の念とは、それほどまでに激しいものなのだろう。

わたしの兄は、ひょんなことから内科医となった。わたしはといえば、選択枝はひとつしかなかった。サッシャがプロの音楽家だったことから、わたし自身も音楽の道に進むことはごく自然なことだった。ゆくゆくはバレー・ダンサーか作曲家になりたいと夢見ていた。10歳の時に『ザ・フォローイング・ラバーズ』という初めての作曲作品を仕上げ、ミュージカル・コメディとしてシナリオも書いた。それに続けて、『火星人のコンチェルト』という、まるでプロコフィエフの『ピアノ・コンチェルト3番』の最終楽章にそっくりの、長大なピアノ曲を書きあげた。

少年時代、わたしは澄みきった美しいソプラノ・ボイスで歌うことができた。そんなことから、わたしは両親には内緒でコロンブス少年合唱団のオーディションを受け、驚いたことにそれに受かってしまったのだ。両親は、わたしがロス・アンジェルスを離れることに猛反対したが、わたしはニュー・ジャージー州のプリンストンにある合唱団の学校に送られることになった。しかしである、一年の間、美しく妙なる合唱曲を歌い続けた後に、わたしは声変わりを迎えてしまい、即座にロス・アンジェルスに送り返されてしまった。不安に満ちた思春期の始まりであった。

帰宅すると、わたしは "家族" が変わり果ててしまったことに気付かされた。暗く落ちぶれた雰囲気に覆われていたのだ。サッシャは、<赤狩り>によって下院非米活動委員会(HUAC)に召喚され、ユニバーサル・スタジオのオーケストラの団員の職を解かれてしまっていた。母も、ブラックリストに名前を挙げられ、映画業界のなかで職に就くことが難しくなってしまった。ある夜、----たしか、当時13歳だったはずだ。----わたしは家を出て、ヒッチハイクをしながらアメリカ大陸の横断することにした。政治の荒波に揉まれ、激怒と悲嘆に暮れていた "家族" からなにがなんでも逃れたかったのだ。とにかく、わたしにとっての未開の地、アメリカ大陸を旅するのは興奮の連続だった。もちろん、人間としての品性を疑う人種差別は何処もかしこに横行していたし、アメリカならではの醜悪さがあったことは認めよう。だが、何処へ行こうとも、ひとびとは見知らぬ旅人でしかないわたしを温かく迎えてくれたこともたしかなのだ。名も知らぬ瀟洒な田舎町を通り過ぎる際に、よくこんなことを考えたものだ。「ごく普通の "家族" の息子として、だれかわたしを引き取ってくれないだろうか?」

数週間の旅路の果てに、わたしはニューヨークに辿り着いた。親切な親戚のおじさんがわたしの面倒を見てくれることになった。彼は、舞台芸術協会で舞台デザインを担当し、そこの役員でもあった。素晴らしいことに、彼はとてつもないユーモアのセンスの持ち主で、わたしを信用し完全な自由を与えてくれた。それからの半年間、わたしは夢見心地でその偉大なる都市を探検してまわることになった。おそらく、その当時のニューヨークといえども、今日の姿とそれほど変りはないだろう。なぜか気持ちを昂揚させる不思議な力に満ちあふれていたものだ。わたしにとって、この都市のサウンドスケープはとても音楽的に感じられた。けたたましい車のクラクションはチャイコフスキーの『ピアノ・コンチェルト第1番』のオープニングのようだし、ブルックリンの方角から朝日が昇り、早朝の街路が真っ赤に染めつくされていく様子はストラヴィンスキーの『春の祭典』の幕開けを思わせた。ラフマニエフの『ピアノ・コンチェルト第2番』を聴いていると、自分がマンハッタンの摩天楼の上を飛びまわっているかのような気分にさせられたものだ。セントラル・パークで鳩の群れがクークーと鳴くさまはとてもリズミカルで、そのうえで歌ってみたくなる程だった。そして、わたしの青春時代を彩る冒険のクライマックスといえば、ウラジミール・ホロヴィッツがルーイソン・スタジアムで、彼のアレンジで『星条旗よ永遠なれ』 を演奏するのを聴いたことだった。

わたしのおじさんはとても心優しいひとだったが、裕福ではなかった。したがって、わたしは自分の食扶持を稼ぐために仕事をふたつ掛け持つことになった。ひとつはニューヨーク・タイムズの "使い走り" だった。新聞記者からの特ダネが舞い込むと、それを一目散に編集部まで持って走るのだ。若く、ありあまるエネルギーを持て余していたわたしにはうってつけの仕事だった。そして、もうひとつは、メーシーズ百貨店の商品仕入れ係だった。ニューヨークに着いて4ヶ月後にはおじさんの家を離れた。毎晩、砦のようにダンボール箱が天井まで積み上げられた商品倉庫のひとつにこっそりと忍び込み、そこで夜を明かすことにしたのだ。百貨店の従業員入り口を見張っている夜警とも友達になった。夜になり、新聞社での仕事を終えた後に百貨店に戻ると、夜警はわたしをピアノが置いてあるメーシーズのショールームへ入れてくれた。そうやって、眠りに着くまえの数時間を、わたしはピアノに向かい作曲に勤しむことができたのだ。だが、ある朝のことだ、眠気に襲われ朦朧としていたせいだろう、わたしは34番通りで車に撥ねられてしまったのだ。そして、ベルビュー病院に担ぎ込まれたわたしは、そのままロス・アンジェルスに送りかえされてしまった。さながら、地獄から我が家へのご帰還といった趣きだった。


時計の針はいきなり先へと進んでしまうが、わたしは南太平洋の楽園トンガ王国へ旅立つことになった。ポール・ゴーギャンの絵に触発されたのだ。すでに電子音楽の可能性に目覚めた後で、スピーカーの付いたアンペックスのモノラル・テープレコーダーを何処へ行くにも携えていた。わたしは、トンガのウトゥレイという北部諸島にある村落に腰を落ち着けた。そして、その体験は、わたしの音楽を新たな方向へとみちびいてくれたのだ。

わたしは、粗末なバンガローの芝の床に座り込んでいた。赤ん坊たちが泣叫ぶ声に包まれ、絶えず襲ってくる蚊の群れにうんざりさせられながら、村の長老たちが交わす会話に耳を傾けていた。みながいっせいに喋るので、わたしの聴覚は音という音であふれかえり、なにを意味するのかさっぱりわからない。女たちが食事を運んできた。浜辺の方からは、寄せては返す波の音が響いてくる。嵐が迫りつつあるようだった。唸るような轟音が波の音に混じりあう。とても不思議なサウンドスケープだった。それは、わたしにとっての音の創世記、ある世界の始まりを感じさせる啓示のようなものだった。すべてをテープレコーダーで録音しておきたいという欲救にとらわれた。南の島では、電源を探すのがいつも悩みの種だったのだが…。そして、その晩、わたしは録音した音源を現地のひとびとのまえで再生してみることにした。それは、これまで写真の存在を知らなかったひとに、初めて写された自分の姿を見せるようなものであった。スピーカーからの音が再生されると、彼らは驚愕の表情を浮かべ、音にくぎ付けになった。かれらの反応の強烈さを目の当たりにして、わたしは、自分が奇妙なパフォーマンスをつかさどっていることに気付いた。その瞬間から、わたしのオーディエンスというものに対する考えは一変してしまった。オーディエンスは、受動的に音楽を享受するだけではなく、積極的に音楽に関与し、音楽という開かれた場所の一部となりえる、ということが理解したのだ。

だが、ある事件のあと、わたしは楽園を去らなくてはならないはめに落ち入り、あやうくテープ・レコーダーまで奪われそうになった。わたしが自分はただの異邦人であるという身分をわきまえなかったがゆえに、事態は混迷の一途をたどるばかり。いったいなにが起ったのかといえば…、わたしは、トンガ王国の国王タウファ・アハオ・テュポー4世の娘、メラナイティー王女と禁断の恋に落ち入り、あやうく国外に追放されかけたのだ。(それからいくばくかの年月を経て、わたしはトンガ王国に戻り、ロイヤル・ファミリーと真に友愛に満ちた関係を結ぶのだが、当時はそれどころではなかった。)幸運なことに、老年のニュージーランド人のラジオ技師、エイドリアン "ポント"・バイウォーター・ラットメン3世が、わたしを彼のちっぽけな帆船に乗せて、国外に逃亡させてくれた。スキャンダルの成りゆきをハラハラしながら見守っていたトンガ国民はみな安堵し、わたしたちはフランス領ポリネシアを目指したのだ。それは、マルケサス諸島(ポール・ゴーギャンとジャック・ブレルは、死後そこに葬られている)のハイヤオまでの、6週間にもおよぶ気の遠くなるような航海だった。アンペックスのテープレコーダーはこの島でも役に立った。小さなカトリック教会のミサの合唱を、その後に行われたわたしたちを島に迎えるための宴で披露された歌や踊りを、わたしはテープに録音したのだ。

それから10 年の歳月が流れた。わたしは、フランスのブールジュに住んでいたときに、南大平洋の島々でフィールド・レコーディングした音源を使って『Otahiti』という曲を録音した。当初の目論みでは、最先端の機材が整ったGRMのスタジオでその曲をつくるはずだった。わたしは、ちょうどGRMでピエール・シェフェールの教えるミュージック・コンクレートのコースを始めたところだったのだ。だが、わたしはポリネシア諸島で行われたフランスの核実験に反対するデモに参加したために逮捕されてしまい、友人のフランソワ・ベイルのすすめに従って、パリを離れ、そこから2時間ほど南の下った田舎町ブールジュに身を潜めることにしたのだ。なにはともあれ、ブールジュのスタジオも当時としては豪華なものだった。そこでは、マルチトラック・レコーダー、ミキサー卓、オシレーター、フィルター、その他の音響機器などがあり、すべてをパッチ式につなぐごとができた。当時のレコーディング・スタジオは、今日のコンピューターを使用した一般的なレコーディング・ソフトウェアと較べると、いくぶんシンプルで、音を加工する際の選択肢もずいぶんと限られていた。しかし、可能性が限定されているがゆえに、音をつくりだすためにより多くのイマジネーションを必要とし、音響コラージュを演劇的に構成していくわたし音楽の特殊性を探究することに役立ったともいえるだろう。

わたしは、エレクトロ・アコースティク・ミュージックの作曲家としての道を歩み始めたにかかわらず、ブールジュの後に移り住んだロンドンでは、しばし活動を休止することになった。当時のわたしのルームメイトであった実験音楽の作曲家のダーク・ロドニーは、わたしは俳優になるべきだと言い張り、劇作家のヨゼフ・ロージーに紹介してくれたのだ。わたしは、ヨゼフのリバイバル作品でクリフォード・オデットが演じる『ウェイティング・フォー・レフティー』に、"ベンジャミン博士" の役で出演することになった。だが、残念なことに、その劇は9回の公演を行った後に打ち切られてしまった。

『Waiting for Lefty』で "エドナ" の役を演じたのは、スェーデン人の女優ビビカ・リンドフォースだった。そして、幸運なことに、わたしは22歳になる彼女の息子マグナスと出会ったのだ。お互いに一目惚れだった。ロンドンの公演が終了してしまうと、わたしたちは、スェーデンのダラナにある田舎町レトヴィックで暮らすことにした。まるで魔法のような夏の日々だった。わたしは、スペルモンステマ・フォーク・フェスティバルで、地元のミュージシャンたちが野外の大自然に囲まれた渓谷で演奏するのをフィールド・レコーディングしたりした。その当時、わたしは、携帯用のウーハのテープ・レコーダーを使うようになっていた。もっとも印象に残っているのが、わたしの曲『Nyckelharpen Variations』で、土台となっているニッカルハルパンの演奏をテープに録音したことだった。だが、レトヴィックでの暮らしは牧歌的な素晴らしいものであったにもかかわらず、わたしには息苦しく感じられたのも事実だった。ウーハのテープ・レコーダー以外には自分の音楽を制作するのに必要な音響機器はなかった。マグナスは、昼間はもっぱら森に分け入って木々を刈ることに時間を費やしていた。夜になると、いくらかの楽しみがあった。マグナスと、ピアノとヴァイオリンで即興演奏をしたものだ。時折、ふたりでフォークダンスの集まりに出掛けたりもした。わたしのハンボの踊りはなかなかのものであった。

ある日の午後、わたしは、ストックホルムへ出向き、近代美術館にコンサートを観に行った。それが、ラシュ・ゴナ・ボーディーン、ステン・ハンセン、ベンクト・エイメル・ジョンソンといった、わたしと同年代の若く才能にあふれた作曲家たちとの邂逅であった。彼らは、テキストの語りを使った作曲作品を主に手掛けていた。わたしのいくつかの初期の作品を聴かせると、気に入ってくれ、わたしを温かく彼らのグループに迎え入れてくれたのだ。そして、彼らはスゥェーデン放送協会ラジオ局と関係が深かったことから、わたしは『Dr. Quisling in Stockholm』というラジオ放送のための曲を委嘱されることになった。この曲は、ノルウェー人の作曲家クヌート・ウィゲンの音響的自伝とでもいうべきものだ。彼は、昔、ストックホルムで仕事をしていた。スェーデン政府を説得し、その資金援助のもとに、クングスガッテン8という巨大な電子音楽のスタジオを建てた。だが、彼は、そこを使用したいというプロジェクトの申請を拒否し続け、だれにもそのスタジオを使わせようとしなかった(後に、わたしはそのスタジオのディレクターとして一時的に働いていたこともあった)。とにかく、わたしにとって、ある特別な理由から、『Dr. Quisling in Stockholm』を仕上げるのは骨の折れる仕事であった。わたしは、スタジオでアシスタントを使わずにひとりきりで作業するのに慣れていた。そのスタイルは、わたしの音楽の極めてパーソナルなあり方と密接に結びついていたのだ。だが、スェーデン国営ラジオ局のスタジオでは、わたしはエンジニアのチームをあてがわれ、彼らを使って録音をすることになった。まず、わたしたちはストックトルムのダウンタウンにあるトンネルのなかにマイクを設置してフィールド・レコーディングを行った。そして、それらのサウンドを当時最先端を行く近代的なスタジオに持ち込み、作業を進めたのだ。わたしは、エンジニアたちの働く姿を眺めながら指示を与えていくしかなかった。テープを切り貼りすることさえやらせてもらえないのだ。すべてをコントロールできるとはいえ、まるで去勢されてしまったかのような気分だった。

ストックホルムでは最初の1年間は、リーディンガー島にある郊外の町に住んでいた。わたしの借りていた家は、スェーデン人の高名な彫刻家ビョーン・イーリング・イーブンセンのものだった。冬場は寒かったが、海辺から垂直にそそり立った断崖の景観は、それはもう見事なものだった。わたしは当時15歳だったビョーンの娘のミカの面倒をよく見てあげていたものだ。ちょうど、彼女と一緒に森へスキーをしに出掛けたときのことだった。わたしは、年若い農夫であり、詩人でもあるジョン・メルクィストと偶然に出会ったのだ。彼が詩を朗読するのを録音したのだが、あまりにも素晴らしかったので、『カッカローチース』という彼の詩をまるごと用いて曲にすべきだと考え、その曲を『Scene Unobserved』と名付けた。この曲が描き出すストーリーは、ある男が森のなかでひとりきりになってしまったときにどんな行動をとるのか、ということだった。社会のなかの衆人監視から逃れたときの人間の生態とでもいうべきものだ。しかし、わたしの考えはだれにも理解してもらえず、むきになったわたしは、自分でその作品を映画化することにした。その『Scene Unobserved』は、わたしにとっての映画監督としての処女作となった。固定されたカメラで森のなかを映し出した場面は最初から最後まで変わらず、ひとや様々な物体がそのなかで魔法のように消えたりまた現れたりする、イングリッド・バーグマンの作品を万華鏡で覗き見るかのような白黒のモンタージュだった。しかし、その作品はスェーデンではかなり評判になったものの、他の国で上映されたことはなかった。

その後、ストックホルムで、わたしはダンスのコリオグラファーのスザンヌ・バレンタインと素晴らしい友情関係を結ぶことになる。わたしたちは、アパートで共同生活を始めるまでになった。彼女が、若い日本人ダンサー、アキ・ナカムラをわたしに引き会わせてくれたのもその時だった。アキは、日本のいにしえの都、奈良で育った。彼の父親はホッケーのチームを率いていたので、自分の息子にもホッケーをさせたかったのだが、アキ自身はいつもダンサーになることを夢見ていた。そして、スザンヌが大阪で公演した際に、彼女のカンパニーに入れてくれと強引に頼み込み、願いは叶えられたのだ。だが、時は流れ、アキはストックホルムでの生活に見切りをつけ日本に帰ることを望んでいた。わたしも彼の帰郷へ同行することになった。わたしとアキは恋に落ちていたのだ。

日本を訪れるまえにわたしが思い描いていた彼の国の姿といえば、アメリカが太平洋戦争の最中にプロパガンダとして流していたイメージでしかなかった。なんということだろう。そんなイメージとは似ても似つかぬモダンな東京と日本人の生活を目の当たりにしたのは、おおいなる驚きだった。わたしは、一張羅のスーツにネクタイなぞ締めて、NHKスタジオに出向いていった。ブリーフケースには自分の電子音楽のテープがぎっしりと詰まっていた。NHKのひとびとは、変な外人の突然の来訪に戸惑っていたようだが、日本人特有の欧米の前衛音楽家に対する憧憬ゆえにだろうか…、わたしを迎え入れてくれた。彼らは、わたしに子供向けの番組の音楽を担当させてくれることになった。そのうちのひとつの番組は、『ブレーメン音楽隊』というもので、その時に付けたサウンドの一部はこのアルバム『アップルトン・シントニック・モノトリー2』でも聴くことができる。その曲は、日本人の子供たちがおもちゃで遊んでいるのを録音した音源のみを使用してつくられている。

またしても偶然の出会いがわたしの運命をおおきく変えることになった。それは、音楽家としての新たなる冒険だった。わたしは、浜松の焼き鳥屋で、たまたまそこを訪ねていたシドニー・アロンソとカメロン・ジョーンズという起業家精神あふれる楽器の技術開発者たちと出会ったのだ。彼らは、小型コンピューターで操作することのできるデジタル・オシレーターを開発したばかりで、それをさらに発展させて、パフォーマンスに向いたデジタル楽器をつくろうと意気込んでいた。世界初のデジタル・シンセサイザー、<シンクラヴィア>の誕生まであと一歩というところまで来ていた。アロンソとカメロンは、アメリカのニュー・イングランド地方のバーモント州にあるホワイト・リバー・ジャンクションという町に住んでいた。そこは、昔はいくつもの汽車の路線が交わる交通の要所として栄えた町だったが、交通の手段が飛行機やバスに移り変わってからは寂れた田舎町でしかなかった。彼らは、その町で<ニュー・イングランド・デジタル>という楽器開発会社を経営していた。すでに、<シンクラヴィア>は注文が13件もあったのだが、現物はまだ完成していなかった。当時のわたしは、エレクトロ・アコースティク・ミュージックはスピーカー・システムを通して再生されるだけで、演奏不可能であることに疑問を感じていた。それゆえにポピュラリティーを得ることができないのではないか、とも考えていた。演奏可能なデジタル・シンセサイザーは聴衆とダイレクトにコミュニケートできる魔法の絨毯となりうるか? わたしは、ホワイト・リバー・ジャンクションに移り住み、シンクラヴィア開発計画に参加することにしたのだ。

わたしは、シンクラヴィアの演奏の可能性を探るために、実際にそれを用いて作曲を行うことになった。初めのころは1台しか楽器がなかったので、技術者が仕事を終えた夜ふけにスタジオに出掛けて行き、そこで朝8時まで働いたものだった。多くのミュージシャンやスタジオ・エンジニアたちの要望を聞き入れながらシンクラヴィアの開発は進められていった。機能の豊富さも驚異的に進化し、それにともない実際のサイズも膨れあがっていった。テクノロジーの進歩は凄まじく、日々新たなる発見があった。まさに興奮の連続であった。たとえば、"サンプリング" なぞという、それまでに聞いたことがないような機能が現れ、実際にどんな音でもサンプリングして、鍵盤上に並べて演奏できるようになった。これまでのピアニストとしての経験がこんなところで役に立つとは思いもよらなかった。その頃にシンクラヴィアで作曲した多くの曲が鍵盤楽器のニュアンスを多分に含んでいるのは、実際にわたしは鍵盤を弾きまくっていたためだと思う。シンクラヴィアの素晴らしさを世に広めるために演奏旅行もずいぶんとしたものだ。90キロの重さの楽器を運びながら、アメリカ国内のみならず、ヨーロッパやアジアにも出向いていった。過酷ではあったが、自分の曲を人前で演奏するのは楽しかった。わたしには、この体験から学んだことがふたつある。まず、ひとつめは、同じ曲をくり返しくり返し演奏するよりは、新たな楽曲を次々と書いていくほうが自分の好みに合っているということだった。そして、もうひとつは、聴衆の半数は、わたしの音楽を楽しみたいというよりも、驚異的なテクノロジーの進歩を実際の目で確かめたいという目的で演奏を聴きにきていたということだった。一作曲家としては、これにはかなり落胆させられたのものだ。1991年、わたしがモスクワでテルミンの生みの親、レフ・テルミンと邂逅した際、彼も同じような不平を漏らしていたものだ。彼いわく、作曲家がテルミンのために曲を書きたがらないのは、彼らの楽曲ではなくテルミンという楽器そのものに聴衆の意識が向かってしまうからだ、ということだった。

シンクラヴィアを使って作曲した多くの楽曲のなかで、個人的に気に入っているのは、『Brush Canyon』と『Homenaje a Milanes』の2曲だ。後者は、わたしにとってのもっとも優れたシンガー・ソングライターであるパブロ・ミラネーズの歌をフューチャーしたものだ。彼とは、ハバナでシンクラヴィアのコンサートを行った時に実際に会うことができた。そういえば、シンクラヴィアのためのコンサートをほとんど録音しなかかったことは、今から思い返すと残念に思えてならない。即興で演奏したもののなかにも面白い部分がたくさん含まれていたのではないかと思う。近年になって、作曲家のメアリー・ロバートがアイダホ州のモスクワという町でシンクラヴィアを演奏した時に録音したテープをわたしに送ってくれた。80年代によく演奏していた『A Swedish Love Song』や『Bonbay』などの楽曲がそのなかには含まれていた。

正直に告白すれば、演奏旅行は過酷で、体力を消耗するばかりだった。演奏料はいつも実費を上回ることがなく、わたしの気持ちは萎えていくばかり。毎回ツアーに出ると、ホワイト・リバー・ジャンクションの近郊にある大自然に囲まれた我が家に帰るのを心待ちにする日々だった。わたしは、気楽な田舎暮し気に入っていたし、四季の移り変わりを肌身で感じるのは素晴らしいことだった。それに、ここに住み始めてから幾人もの新たな友人たちとめぐり合えたのは、幸運なことだった。ビジュアル・アーティストのベリル・コロットと作曲家のスティーブ・ライヒとは、よく一緒にアパラチアン街道へハイキングをしに行った。ここから車で10分ほどのハノーバーという町にあるダートマス・カレッジでは、クリスティアン・ウルフやラリー・ポランスキーらが教鞭を取っていた。彼らのような、個性的な作曲家たちと付き合うのは面白かった。1989年には、ロシア人の歌手であり合唱団の指揮者であるディミトリ・ポクロフスキーと出会った。そして、ディミトリとの親交を通して、わたしは自らのルーツであるロシアへの愛情に目覚めたのだ。それに、彼のユーモアのセンスや立ち居振る舞いには、1981年に他界してしまったわたしの育て親 "サッシャ" を思わせるところがあった。

1984年には、モスクワを初めて訪れ、コンポーザーズ・ユニオンでシンクラヴィアのコンサートを催すことになった。だが、どうしたことか、その時の聴衆の反応というものは…、なぜか、ほとんど皆無に等しかった(後に状況は一変するのだが)。1991年には、再び彼の地に降り立ち、友人のディミトリがモスクワ市内を案内してくれることになった。そこはまるで荒れ果てた開拓以前のアメリカの西部とでもいうものだった。共産主義は去り、ひとびとは希望に満ちあふれていた。確かに、生活は混乱をきたし、都市はカオスそのものであった。だが、一般的なロシア人の心情というものは、たいへん優しく美しいものだった。わたしの音楽にも限りない興味と理解を示してくれ、それ以降、わたしは度々モスクワでコンサートを開くことになった。そういえば、わたしは、多くのロシア人の若い作曲家たちとも会う機会を得たのだが、彼らの多くは「新たなる創造の自由」とでも言うべき風潮に、良くも悪くも酔いしれていた。たとえば、モスクワ音楽院の生徒の作曲作品を聴いていると、ドビュシー、アイヴス、ストラヴィンスキーなどが活躍していた20世紀初頭のの時代の空気と合い通じるものを感じたりもした。激動の時代から生まれ来る音楽とでも言えばいいのだろううか。

ホワイト・リバー・ジャンクションの我が家にいても、わたしはロシア人コミュニティーの連中とよく付き合っていた。彼らの多くは、1952年のスターリンの死にともなって、アメリカに移住してきたのだ。ポルカ・ボット・ダイナーのコック、ボリス・ブスタリービアは、ロシアでは有名なソング・ライターだった。小さなスタジオを経営し子供たちにピアノを教えているアレキサンダー・カリシンコフは、かつては世界的に名の通ったピアニストだった。ボリショイ・バレーの花形であり、彼の天才ダンサーの姪であるミッシャ・ニジンスキーは、この町で自動車機械工として働いていた。それに、エカトリンブルグ・シンフォニー・オーケストラの指揮者であったオルガ・ペルツォフカは、デビット・フェアバンク・フォードの運営するメイン・ストリート美術館のアシスタント・キュレーターとなった。彼ら亡命ロシア人たちとの親交は、わたしの "母なる大地ロシア" に対する飢えと渇きを癒してくれたものだった。加えて、彼らの暮らしは、映画監督マット・ビューシーのドキュメンタリー作品『Moscow Meat』の題材にもなった。わたし自身もインタヴュアーとしてこの映画には出演している。この作品は各方面で様々な反響を巻き起こし、ブラジルのサン・パウロ・ビエンナーレにも出品され、見事にドキュメンタリー部門の金賞に輝いた。

映画祭の授賞式に参加するためにサンパウロを訪れた際に、わたしは、才能あふれる歌い手であり、民族学者であるマルーイ・ミランダに出会った。彼女はアマゾンの住むインディオたちの歌を現代風にアレンジしたアルバムをつくり、世界各地で高い評価を得ている。マルーイとわたしは、ブラジルの孤児院で暮らす子供たちと一緒に音楽をつくるプロジェクトを企画し、実際に、いくつも曲を書いた。本当のことを打ち明ければ、孤児院を訪ねるのはあまり気が進まなかった。自分が人生の最初の6年間をそこで過したことから、母親に見捨てられた痛々しい記憶が再び蘇ってくるのではないかと、怖れていたのだ。だが、サルバドール、ベレン、オリンダ、リオ・デ・ジャネイロ…、いくつもの孤児院をめぐるうちに、子供たちの不幸な境遇を乗り越えていく逞しさに圧倒させられ、わたし自身も励まされたほどだった。

時折、ブラジルに戻り、アマゾンにあるインディオの村落でマルーイと一緒に暮らすことを、ふと考えたりもする。だが、とりあえず今のわたしは、バーモント州のホワイト・リバー・ジャンクションで、ピアノに向かい曲を書きながら、静かな生活を送っている。

2002年9月
ジョン・アップルトン

Jon Appleton の CD『Appleton Syntonic Menagerie 2』(Phonomena Audio Arts & Multiples) 収載


Last updated: August 17, 2004