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ジョン・ゾーン、アバンギャルドの伝統継承者

恩田晃

もうあれから1年近くになる。2003年9月、ニューヨークのローワー・イーストサイドのクラブ「トニック」で、ジョン・ゾーンの生誕50周年を祝う一大フェスティバルがくりひろげられた。近年取り組んできたクラシカルな作曲作品群、クレズマーとオーネット・コールマンの邂逅から始り、終いにはマイルスなみにエレクトリック化してしまったマサダ関連、コブラなどの即興をベースにしたゲーム・ピース、フレッド・フリス、ミルフォード・グレイブス、ワダダ・レオ・スミス、ヤマンタカ・アイなどのベテラン・インプロヴァイザーたちとの共演までを網羅した計28プログラム、誰よりも多くを望み、多くを実現してきたダウンタウンの盟主にふさわしい華々しい1ヶ月間だった。そのころ、『タイムアウト』(NYの週間情報誌)に掲載された記事では、「俺は、50歳になったっていうのに、自分でフェスティバルをオーガナイズしなきゃならないんだ! 30年間も自分のケツを鞭打って働きつづけてきたんだ。で、30日間に渡って俺の音楽を演奏するんだ。なのに、街なかにポスターひとつ貼られるわけでもない。新聞にでかい記事がでるわけでもない。50歳にもなった作曲家のワールド・プレミアをなぜトニックで演らなきゃならないんだ? 普通なら莫大な金が転がりこんでくる委嘱作品で、豪華なホールで演奏されるもんだぜ!」と、いつもながらの愛嬌のある毒突きかたで御託をならべていた。ようは、ゾーンは、低予算の自主制作でレコードをつくり始めた70年代末から、この生誕50周年フェスティバルにいたるまで(ちなみに、40歳になった暁にも、ニッティング・ファクトリーで同様の企画をやっている)、独立独歩で、みずからのネットワークだけをつかい、ゆるぎない大胆さと周到な用心深さでもってアイディアを実現しつづけ、巨大な音楽のミクロコスモスをつくり上げてきた。だが、その活動は、本人がいうように評価されていないわけではないし、惨めな扱いを受けているわけでもない。たとえ、それが茨の道だとしても、ゾーンは、みずからアウトサイダー/アウトローとして、アンダーグランドな世界に踏み止まることを選んだのだ。一時はノンサッチと手を組むなど(遥か昔の話だが)、メジャー化を計ったこともあったが、結局はみずからの芸術に対する一切妥協を許さぬ態度ゆえに、レーベル「ツァディック」の運営に着手することになり、みずからの世界観に通じ合うアーティストらを巻き込み(共にみずからの世界観を持つ、という意味合いにおいて)、そのカタログはすでに250枚を越えている。まるで、かつて、シカゴのAACM(創造的ミュージシャンのための進歩のための協会)やセントルイスのBAG(ブラック・アーティスト・グループ)が夢見たような音楽家による音楽家のための共同体をNYのダウンタウンに打ち立ててみせた(それ自体に明白な形などない。あえていえば、ゾーンの夢想した理想、とでもいうものだ。だが、音楽を生み出すために現実的に機能する状況でもある)。

みずからによる、みずからのための音楽を、それを取り巻く状況を含めてみずからつくり出す。それが、ゾーンのやってきたことであるし、いまでもそうであるのだろう

で、ここで本題に移ろう。それは、音楽的な意味合いでの<ゾーンの世界>ということだ。ネイキッド・シティなどで音楽界を撹乱させた80年代、マサダを媒介にみずからのユダヤ的アイデンティティーを明確にしようとした90年代、クラシカルな作品群でみずからの世界をより深く掘り下げようとしている00年代…、こういう風にスタイルの変遷をなぞるのは、たやすい。だが、そこで、ゾーンの音楽の本質を見落とすのも、たやすい(ポスト・モダンの旗手としてゾーンを持ち上げたことで、いったいなにが見えたというのか? 90年代末にゾーンをめぐる多くの言説が脳死状態に落ち入ったことを考えてみればいい。少なくとも、ゾーンは、それに愛想をつかし、降りた)。室内楽的なアンサンブルからオーケストラまで、いくつもの違った形態のために書かれた作曲作品が続々とリリースされてる現在を念頭において、ゾーンの昔の楽曲を聴き直してみると、ゾーンならではのカラー、そして話法 ―非言語的なレベルでの音楽的言語― とでもいうべきものが明確に存在しているのがわかる。たとえば、96年の『デュラス:デュシャン』、97年の『アポリアス』などの描き出す世界は、ジャン・ジュネに捧げられた92年の『エレジー』やユダヤ的な問いを立てた93年の『クリスタルナハト』と、演奏されるコンテクストは違えど、まったく同一線上に置かれているし、それを敷衍してみると、ゾーンみずからの世界が、彼のキャリアのなかで、いたるところで、通底しているのがわかる(ついでに、73〜74年、ゾーンが十代の頃に録音としたという『ファースト・レコーディング』を聞き直してみてもいいだろう。実にゾーンらしい作品だ)。首尾一貫しているのは、音楽的な世界観のみではない。昔のインタヴューの数々を読み返してみると、彼の発言もなにひとつ変っていないことがわかる。80年代から、自分をクラシカルなコンポーザーとして捉え、みずからの世界をつくりあげることに極めて自覚的だったし、数多くのダウンタウンのミュージシャンのなかで、そういうことができるのは、自分だけだということも見抜いていた(アンソニー・コールマンは彼ならではの世界を持っていたし、イクエ・モリはそれを最終的に成し遂げた、といえるだろう。その他の数多くのミュージシャンは、コンポーザーというよりは、お互いに反応しあうミュージシャンでしかなかった)。

そして、ゾーンがみずからの世界をつくりあげるための拠り所としたのは、20世紀の前衛音楽、映画、美術、文学のアウトローたちがつくり上げてきた個人的な世界の数々だ(ヨーロッパ的な意味合いでの歴史の正統性は、無視されている)。あくまで個人の想像/創造の世界なのだ。そこが、ゾーンがアメリカのアバンギャルドのコンポーザーの伝統を受け継いでいる点でもある。ハリー・パーチ、チャールズ・アイブス、ジョン・ケージ、モートン・フェルドマン、マウリシオ・カーゲル、エリオット・カーター…、 マヤ・デレン、ハリー・スミス、ヨゼフ・コーネル、アグネス・マーティン、マルグリット・デュラス、マルセル・デュシャン、アントナン・アルトー、アレイスター・クローリーなど、列挙すればきりがないが、前衛芸術の天蓋を彩る星々に対して無差別ともいえる偶像崇拝を行い、降霊術によってそれらの霊的なパワーをみずからの音楽に憑依させてきた。ゾーンにとって学ぶこととは、そのなかに身を浸すことであり、血肉とともに交わることであった。そして、一見無軌道にも見える多岐にわたる活動も、みずからを星雲の恒星のひとつとして輝かせたいという欲望に照らし合わせてみれば、一本の輝ける道を指し示していることがわかるだろう。その道こそがゾーンみずからの世界であるし、20世紀にビックバンのように拡がった前衛芸術の星雲を照射する一条の光でもある(現在、クラシカルな現代曲を書いている作曲家でゾーン以上にフレッシュな感覚を持ったひとはいるのだろうか?)。そう考えてみれば、ゾーンは、かつて盛んにいわれたように、秩序を撹乱する偶像破壊者だったわけではなく、まがうことなきアバンギャルドの伝統継承者だったといえるだろう。

ともかく、時代は移り変り、あるひとりの前衛作曲家のつくり上げた世界を取り巻く状況もずいぶんと変貌を遂げた。作曲家自身の音楽性も確実に変化している。マサダ・ストリング・トリオ、ミルフォード・グレイブスとのデュオ、アート・リンジー、アントン・フィアとのロクス・ソルス、エレクトリック・マサダなど、続々とリリースされる生誕50周年記念のドキュメント・シリーズは、現在のゾーンの姿をうまい具合に捉えているように思う。音楽の最前線をひたすら駆け足で走り抜けてきたゾーンの半世紀を総括する内容でありながら、各プロジェクトのオリジナルのアルバムと聴き比べてみても、演奏にのびやかさが加わり、より生き生きとしている。もはや、目新しさなどなにもない。だが、目新しさだけが注目され、音楽の本質がなかなか顧みられることのなかったジョン・ゾーンの世界を捉え直すことが、ここへきて、ようやく可能になったのではないだろうか。

『スタジオ・ボイス』(2004年9月号)掲載


Last updated: August 13, 2004