どうしても残しておきたいと思う時、録音ボタンを押し、シャッターを切る。どのみちそれは、時間が過ぎ去れば失われてしまうのだ。その場では確かに存在していたとしても、残されるのは残像でしかない。実際の手触りも温もりも失われ、感情も感傷も消え失せた、空漠とした世界。雨の雫のひとつひとつを、ずぶ濡れになった時は感じても、次の日に晴れてしまえば、それは<記憶>でしかなく、過ぎ去った数々の通り雨のひとつとして、ディティールは薄れていく。移ろいゆく瞬間、決して留まるところを知らないディティールを記録すること。かなり無駄なことなんじゃないかとも思うが、まあ、仕方ない。
そもそも、なにかを得るというよりは、なにかを失うというセンセーションに突き動かされて、録/撮りつづけているような気がする。<記憶>というよりは<忘却>の力に頼っているのだろうか。だから、過去に録/撮りためたテープを聴き写真を眺めていても、あれはどうだった、これはどうだった、と事実の重みは感じない。かすれたり、ぶれたり、脚色されたり、歪曲されたり、人間の記憶の複雑なメカニズムを感じる(なんて不完全なんだろう。かなりぶっ壊れている。それってわたしだけ……?)。
網膜が光に感応し、残像の中に取り込まれ、意味を失った世界とともに、<忘却>の彼方へと連れ去られる。過去にとらわれるのは辛いもんだし、どうせ日常は死ぬまでつづくんだし、それでいいんじゃないか?
『美術手帳』(2004年11月号)掲載